以前から、私の中で常々考えていたことがあります。
昨日は生徒と、今日は友人と話していて、まだ仮定ではありますが、今の段階でまとまったことをお話しさせていただきます。
「良い教師とは?」
ということについてです。
まず、生徒がどういう教師を望むのか、また、どういう段階かによって、あるべき教師の姿は変わってくるのが前提です。
ここでお話ししたいのは、生徒が初級の段階と、その後の上級者の段階における教師の在り方です。
一般に、小さな子どもから音大生になっても、楽譜の読み方やピアノの扱い方に関して指導せねばならないのが、日本の教育現場においての標準だと思います。ここで必要とされる教師は、例え生徒がそれをすべて吸収できなくても、その生徒の足りない部分のすべてを指摘すること、良い方向に導くことが大切です。
そんなことは、当たり前のことと思われる方は大勢いらっしゃると思いますが、実際の現場で、本当に徹底されて行われているでしょうか?私が感じる限り、私の学生時代も含めて、今現在でも、残念ながら行われていないケースが多々あることを感じます。これについては、非常にデリケートな問題で、教師と生徒、両方の音楽に対する姿勢が関わってきますし、非常に難しいことであると思います。しかし、その学習曲について、その生徒の問題点を少なくとも1回は言わなくてはならないと思います。1回はです!生徒によっては、その1回で吸収できる、もしくは、その時に吸収できなくても理解はできると思います。
一方、1回でできない生徒もいます。一般的に良心的な教師ほど、使命感を持って何度でも繰り返し言い聞かせる方もいるでしょう。しかし、基礎的な事柄、例えば音の発声訓練のようなことなどや基本的な音型の弾き方、ポリフォニーの弾き方などについては忍耐が必要だと思いますが、幹ではなく枝葉の部分など曲の仕上げに関して、その生徒にもよりますし、絶対とは申しませんが、基本的に私はその必要はないと思うのです。なぜならば、それは意地悪く申し上げれば、教師側の達成感、ある意味では自己満足に過ぎないと感じますし、特に小さな子供のレッスンに於いては、芸術を教えるというより、ペットに芸を仕込むような感が否めないからです。
確かにそうすることによって、生徒はできるようになるかもしれませんし、その結果としてコンクールに入賞さえできるかもしれません。それは認めざるを得ませんが、その生徒の長い人生というスパンで考えたときに、疑問を感じます。そのように教育され順調に育ってきたとしても、いつか、そのしわ寄せがくるように思います。人間は押し付けられたことは、いつか嫌になってやめてしまうものです。そのようにされて、例え、できたと思えたとしても、本当にできたこと、理解したことになっていないのかもしれません。
昨今、コンクールに入賞させる教師が良い教師と思われがちですが、私はその現状を問題だと考えております。
大切なのは、慌てることなく、じっくりと腰を据えて、しかし、教えすぎることなく、長い目で生徒のことを見守ることだと思います。
次に上級者のレッスンに限ってお話しますと、日本においては一般に音大を卒業するレヴェル、ロシアにおいては教育システムが異なりますから、もう少し早い段階である、モスクワ中央音楽学校を卒業するレヴェルにおいては、理想的に育ってきた場合、教師の役割は基礎的なことから、より芸術的な領域になります。
ここで話は戻りますが、日本とロシアの基礎教育の段階の傾向は大きく違います。日本では、簡単に申し上げて、少しでも早い段階で難しい曲をなんなく弾けるようになることが目標とされているように感じます。しかし、ロシアにおいては、先に挙げました基礎的なことにたくさんの時間を割いて、技術的に背伸びをするような曲は与えずに、むしろやさしい曲を教材に、指を動かす発想よりも、指を鍵盤に置いてよい響きを追求する、音楽的に自然に歌わせることに主眼を置いています。そのためには指を支える筋肉が必要不可欠であり、動かす筋肉よりも、支える筋肉を長年かけてつけていきます。ですから10歳くらいの段階では、ロシアの子供より、日本の子供の方がはるかに難しい曲を弾いてしまうのですが、根本的に弾き方が違うために、その数年後には、はるかにロシアの子供の方が音楽と技術が伴った素晴らしい演奏が出来るようになってしまうようです。
さて、上級者の段階の話に戻るとして、ここで良いとされる教師は、一見教えない、言葉数も少なく、見本を見せるのも少しというのが理想に思います。しかし、その少しの見本は、私がニコラーエワ先生の見本、ほんのひとフレーズに大きな感激、刺激を受けたように、そのひとフレーズに、その教師のそれまでの芸術家としての人生のすべてが含まれている、非常に強いメッセージが込められていなくてはならないと思うのです。ただ、美しいとか、正しいというだけではダメなのです。その音のメッセージから、生徒は色々なことに気がつき、悟ることが大切なのです。極論かもしれませんが、最終的にピアノの世界は、本来は職人の世界なのです。師匠は弟子に教えるのではなく、弟子が師匠からぬすむものです。
かのゲンリッヒ・ネイガウスは、自分自身のことを「芸術家としては一流だが、ピアニストとしては二流」と言ったらしいのですが、ネイガウスがひとフレーズ弾くと、生徒たちは心から感動したものだそうです。そのひとフレーズは、さぞかし人の心を動かしたに違いありません。できることならば、私もその場に居合わせたかったと心から思います。思うに、ネイガウスという教育者は、教育者である前に、ピアニストというよりむしろ真の芸術家だったのだと思います。
以前の章でも申し上げましたが、私はニコラーエワ先生の人生感あふれる素晴らしい、ひとフレーズ、どころか演奏をまじかで聴くことが出来ましたし、これだけ時間がたっても、私の耳に、心にしっかりと残っております。これは、私にとってかけがえのない財産です。この大きな財産があったからこそ、私は私の思う、いばらの道を歩んでくることが出来ました。あれから20年経った今、私自身が、あの時のニコラーエワ先生のように、生徒たちになんらかの音で語るメッセージを伝えることが出来るとすれば、こんなに幸せなことはないと思います。クリックお願いします!
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