ディーナ・ヨッフェ氏と
彼女との出会いは、ふとした偶然からでした。それはさておき・・・。(笑)

 

彼女の今までの人生は、一言で言って、とても不遇なものだったようです。

「私はシューマン国際コンクールでも、ショパン国際コンクールでも、いつも2位よ!」

と笑顔とともに冗談めかしておっしゃったのが印象に残ります。

 

そもそもコンクールというものの結果は、皆さんがご存じのように実力だけで決まるものではありません。1970年度のショパン国際コンクールは、今や巨匠の1人と呼ばれるようになったクリスティアン・ツィマーマンが第1位、そしてヨッフェ先生が第2位という結果に終わりました。この時のコンクール、実は第3次予選の段階まで、ヨッフェ先生が1位の点数だったのにもかかわらず、ある政治的理由により本選が終了してみると順位は入れ替わってしまったのです。

 

コンクール終了後、ツィマーマンの先生であり、その時の審査員の1人、アンジェイ・ヤシンスキ先生がヨッフェ先生に「本当の1位はあなたです!」とおっしゃったそうです。

その時のヨッフェ先生の心中を考えますと、何とも申し上げられない気持ちになります。

 

その後の数年間、ヨッフェ先生には世界中からの演奏依頼が殺到したのにもかかわらず、当時のソ連当局は、一切出国許可を下さなかったそうです。察するに、それはヨッフェ先生がユダヤ系だったからと言われています。

 

ヨッフェ先生が生まれた、ラトビア共和国(当時はソ連)の首都リガにおいても、ユダヤ人排斥運動は盛んだったそうです。その後モスクワに移住しますが、先に挙げた状況から、その境遇は想像できます。

 

時代は変わり、ソ連が崩壊しロシアとなり、ユダヤ系であるヨッフェ先生は、ロシアでの生活をあきらめ、イスラエルへ移住することとなりましたが、その際に持ち出せたものは、1人トランク2個まで!愛用の楽器も手放さなくてはならなかったそうです。

 

以前、モスクワのことについて触れられたときに

「モスクワは私にとってはもう異国よ!」と悲しげな表情でぼそっと呟かれておりました。

 

母国、そして母国語を捨てざるを得ない境遇とは、一体どんな気持ちなのでしょう?想像するに、これほど悲しく残酷なことはないのではと思います。

 

そんな不遇な人生を送らざるを得なかったからでしょうか、ヨッフェ先生の演奏はもちろん、マスタークラスにおけるレッスンにおいてまで、彼女の心からの真の温かさを、私はいつも感じます。

 

生徒がうまく弾けなくて、泣いてしまった時でも

「どうして泣くの?うまく弾けなかったから?そんなことで泣いてはだめよ!

 人生にはもっともっと泣きたくなることがあるのよ!」

とおっしゃいます。

 

ある時、私はヨッフェ先生から改まって言われたことがあります。

それは

「シンジの生徒のことを、私は自分の生徒だと思っているのよ!」

その言葉の通り、11人が、前回のレッスン、前々回のレッスンでどういう演奏をしたかをしっかりと覚えていらっしゃるのです。時には深い愛情から出てくる厳しい言葉もありますし、生徒が良い方向に成長していると思うと、本当に喜んでくださいます。

 

一般的に外来教授のレッスンというのは、その演奏そのものに対して限定して行われるものですが、ヨッフェ先生のレッスンというのは、その生徒に今必要なことはもちろん、その生徒の性格や考えを捉え、その生徒の過去の演奏から、現在、そして将来にわたって何が必要かを見据えたうえでのレッスン、彼女の心からの温かく、時には厳しい発言を感じることが出来るのです。

 

「人を育てる」ということの真の意味を感じさせられます。

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