一昨日、そして昨日と、ピアノの演奏に関して目から鱗が何百枚も剥がれおちるような衝撃的体験をしたので、その覚書きの様なものではありますが、今後の自分の課題として肝に銘じるという意味合いも含め以下綴りたいと思います。
タイトルにご興味を惹かれた方、しばしお付き合い頂ければ幸いです。
2008年末に留学先のモスクワから完全帰国して以来、指導の仕事と並行してホールやサロンでの演奏の機会を頂いてきました。その様な状況の中で、今年の1月、とあるスタジオで知り合いのピアニストと同日に行った演奏の録画を見て、その楽器から出てくる音の響きの大きな違いに、モスクワ留学時代も含め恩師ヴェラ・ゴルノスタエヴァ先生から教わってきたはずの“響く音”に対する自分の意識が、知らず知らずのうちに非常に鈍感になっていた事を痛感しました。
慢心とは恐ろしいものです。
ゴルノスタエヴァ先生に20年近く師事し、留学時代の最後の2年くらいはレッスンにおいても“音が響いていない、音に声色がない”という事をあまり注意されなくなっていたので、いつしか“響く音とはこういうものだろう”という意識が自分の中に芽生えてしまいそれ以上の高みがある事への想像力(探究心や問題意識)を失っていたのだろうと思います。
上記の1月の事をきっかけに改めて自分の奏法の見直しを始めたのですが、つい先日某ホールでチャイコフスキーの『四季』から3曲を演奏した際にも、その会場のピアノの音の硬質さに悩まされ、自分自身“なぜこんなに角のある音しか出ないのだろう・・・でも・・・これはやはり楽器そのものの音質が硬い事も原因なのかな・・・??”と終始すっきりしない気持での本番となってしまいました。
その様な経緯があり、今回、以前から私の演奏動画に対して色々とアドヴァイスを下さっていた大野眞嗣先生に実際ご自宅のピアノで演奏を聴いて頂きご意見を頂く為、レッスンをお願いしました。
さて、レッスンにおける最初の衝撃。
それが何であったかと申しますと・・・
“何でもいいから弾いてみて。”という先生の言葉に、チャイコフスキーの『四季』より9月の冒頭のDのオクターヴを打鍵した瞬間・・・
“えっ・・・!?!?!?!?!?”
その楽器から出てくるあまりの音の平板さ、響きの薄さに愕然としました。
これまでに、大野先生のご自宅のピアノでの生徒さんの演奏を動画でいくつか拝聴させて頂いていたのですが、そこで聴いていた音とは似ても似つかぬ、色も豊かさもない、言うなればすかすかのスポンジのような音。
とりあえず9,10月の2曲を続けて演奏したものの、頭の中は“何故何故ナゼ何故なぜ何故、何故!?”の大合唱(苦笑)。
これはもう先生としても失笑されるしかないだろうと覚悟していたのですが、大野先生は、その様な味わいのない演奏に対しても、私がこれまでに勉強してきた事や演奏する人間としての立場を尊重して下さいました。
“いい音楽家だと思う。演奏も非常によくまとまっている。だから、ひょっとすると僕はこれから全く別世界のお話をする事になるかもしれないし、それを君の感性が必要とするかも、正直なところ分からない。でもね、こういう音もあるんだよ。”
そして一音。
・・・今の今まで自分が弾いていた楽器で奏でられたとは思えない、密度の詰まった、太く、深く、そして温度のある音。
言葉を失いました。
ゴルノスタエヴァ先生が度々おっしゃっておられた、“聴き手の心にまっすぐに届く音”。
大野先生の一音には、まさにその様な雄弁さと存在感がありました。
勿論、“音に対する判断”に絶対的基準はありません。
個々の“音質”は最終的には感性で受けとめるものなので、同じ音に対しても個人の趣向の違いによって様々な意見が生まれるのは当然の事ですが、
大野先生がご自身の目指す到達点と認識されているタチアナ・ニコラーエヴァ先生の音、
私が心ひかれてやまないエリソ・ヴィルサラーゼの音、
恩師ヴェラ・ゴルノスタエヴァ先生の音、
大野眞嗣先生の音、
私には、全く同じ質感を持ち、品格と気高さを湛えた音に感じられたのです。
そしてそれは、自分にその様な技術と聴覚があるかは全く別問題として、心から出したいと欲する音でもあります。
その後レッスンが始まったのですが・・・案の定、そんな素晴らしい音は出せません(苦笑)。
腕の構え、支点の意識の持ち方等のポイントを丁寧にご説明頂き何度も試してみると、時々楽器が良い音で鳴ってくれるのですが、それを自然な感覚として身体に覚え込ませられる日が来るのかどうかも、まだ分かりません。
ただ、自分の中での意識として確実に変化したものがあります。
先生が繰り返しおっしゃられた、音を遠くまで飛ばすというのは、響きを広げる事ではなく(←私はずっとその様に捉えていました)、『手の中に響き(音符)を集めそれを親指で抜きながら飛ばす事』。
そして、深く良い音が鳴った時というのは、鍵盤の上で指が止まってしまうのではなく(現象としては止まっているのですが)、本当に指が鍵盤を突き抜けて床まで伸びて行くかのように指先に鍵盤からの抵抗を全く感じなくなる事。
これには心底驚きました。
日曜日には、先生のご厚意で生徒さんのレッスンを見学させて頂きました。
そこで聴いたバッハのシンフォニアEs-durの先生の演奏(音)を、私はこの先ずっと忘れる事はないと思います。
神々しいと言っても過言ではない格調の高さ、そしてバッハのEs-durがもつ温かな響きにただただ心が洗われ、涙が流れそうになりました。
“教会の中で響き渡っているようなね、そういう音楽なんだよ。”
先生は生徒さんにそうおっしゃっておられました。
豊かな響きを楽器から引き出す事のできる演奏家の演奏は、やはり素晴らしいホールで聴くのが一番です。
けれど先生のバッハの演奏は、もう一つ別の真実を私に教えて下さいました。
豊かな響きは、部屋の空間そのものを膨張させてしまう。
バッハが流れていた時間、私は自分がマンションの一室ではなく、ヨーロッパの天上の高い石造りの教会の中に一人佇み、響き渡るオルガンの音に耳を傾けているような、そんな感覚を覚えていました。
“もう一度学生に戻ってやり直す気分です(苦笑)。”
と申し上げたところ、
“何を言ってるの(笑)。一生勉強だよ。僕だって今も日々研究、発見の繰り返しなんだから。”
とおっしゃって頂きました。
自分の未熟さを知ったからと言って、今ここで演奏や指導の仕事を一切やめるわけにはいきませんが、一方で大きな課題を与えられた事は、自分の慢心をもう一度揺さぶり起こすという意味でも本当に幸せな事でした。
“人から何を言われても、自分の心に嘘をつく事は出来ない”と言った友人がいます。
自分も、どういう形であれ音楽を続ける限り、心が求める音をずっと追い続けていきたいと思います。
最後までお読み下さった皆様、どうも有難うございました。
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