他者の演奏を聴いているときに、耳を良く使っている演奏か使っていない演奏かは、手に取るように客観的にわかってしまうものです。これは、演奏する時の耳の状態が、理想的な状態になっているか否かということです。

言い換えるならば、耳が開いた状態なのか、閉じた状態なのかと申し上げることもできます。

それでは、理想的な耳の使い方とはどういう状態なのでしょうか?

例えば、夜寝るときに、静寂が音となって、時にはうるさいほど聞こえてくる経験を皆さんされていると思います。また、寒い冬の朝、ふと目覚めたときに、静寂の中に雪がしんしんと小さな音を立てて降っているのが聞えてきたり。

その状態が耳が開いている状態なのです。

演奏する時の耳の状態もこのように耳を開いた状態の感覚にします。そうすることにより、例えば1音を弱音でそっと弾いただけでも、その1音に含まれている倍音が聴こえだし、全体の響き、音の行方までも聴こえ、最後の最後に音が消える瞬間のかすかな余韻まで聴こえてきます。

思うに、現代社会の普段の生活では、ありとあらゆる音、場合によっては騒音ともいえる音まで含めたくさんの音が溢れています。もしそのような中で、すべての音に耳を傾けていては、人間の神経がまいってしまうと思うのです。ですから、人間というのは不必要な音は聞かないように、ある意味、無意識のうちに耳を閉じた状態で生活しているように思います。

しかし、演奏する時には、日常の耳の使い方から演奏の耳の使い方に切り替えることが必要なのです。その感覚にするには、弾きだす前に、耳の準備、耳を開いた状態にするのです。

これは、ある種の集中力ともいえます。その状態で、無音の中に空気の振動を感じることができてから、弾き始めます。

その状態は、音の響きを聴く受動的な状態ともいえます。そして、手の感覚は非常に抽象的であいまいな感覚で弾かなければなりません。

特に本番においては手のことを考える余裕などありませんから、普段の練習の時からこの耳の感覚の中で技術的なつじつまを合わせていくのです。

よくあるケースに「聴く」という受動的な意識より、「弾く」という能動的な意識が働いている演奏があります。これでは、耳が聴こえている演奏とは言えません。

例えば、マルタ・アルゲリッチの弾いている姿を想像してみてください。彼女の演奏しているときの状態は、ひたすら耳だけで弾いている状態であり、不思議と手で弾いているとは思わせない演奏です。

彼女にとって、彼女の手はもはや、ある意味で弾いている手ではない、無意識の感覚で、先に挙げた「弾く」という意味での能動的な意識の状態ではないように思います。意識しているのは耳だけといっても過言ではないのです。

その理想の状態で演奏できるようになるためには、その状態で演奏が成り立つ奏法というものがあり、彼女にそれが身についているから出来ることなのです。
ブログランキング・にほんブログ村へクリックお願いします!
にほんブログ村