演奏には大きく分けて2つのタイプがあると思います。

1つは演奏の本質的な部分がある意味で絶対的な印象を与え、聴く者に発想の自由を与えないかのごとく完成された演奏。形に例えるならば寸分狂わない正三角形のようで、それにはある種の強い主張が存在すると思うのです。

もう1つは演奏の本質を捉えつつ、聴く者に発想の自由を与える、またはゆだねる印象の演奏です。それは形に例えるならば何かいびつな形をしているかもしれません。

私自身は、生き方そのもの対して、自分自身の存在は世間にとっては何気ないものでありたいと思っています。ですから、演奏というものは、生き方そのものが反映されるわけで、私自身は先に挙げた演奏のタイプを選ぶとすれば後者の方、つまり聴く者に発想の自由を持って聴いてほしいと思うのです。

それは何気ない演奏であり、聴く者に作曲されてからの何百年という時空の空間まで感じる広い想像性を喚起して頂きたいのです。

私の持つ全くの主観ですが、前者のような演奏をするタイプにスビャトスラフ・リヒテルやエリソ・ヴィルサラーゼ。後者のタイプにマルタ・アルゲリッチやミハイル・プレトニョフが当てはまるように感じます。

どちらのタイプの演奏も聴き手がそれを意識することによって、その演奏の説得力はより増してきますし、弾き手の立場をより理解できると思います。なぜ、プレトニョフがあのような一見自由な演奏をするのか?というのを内側から実感するためには、何らかの形で聴き手が彼に歩み寄らなければ共感を覚えることはできないのです。

 

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