その演奏の評価は、演奏者に100パーセント責任があるのではなく、聴く側にも責任があると思います。
多分、双方に50パーセントずつ責任があると考えています。ですから、演奏者は自身の中で、100パーセントの演奏を目指しますが、そこには限界があり、50パーセントは聴く側にゆだねるしかないのです。
多くのピアニストの演奏から、彼らの頭の中で「正しいか間違いか?」が最大の目標のように聴こえてきます。もちろんプロならば当たり前のことですが、素晴らしい演奏には、それを越えて、「好きか嫌いか?」という判断基準を基に、もちろん好きで弾いていることが感じられます。ですから、プロの演奏よりもアマチュアピアニストの演奏のほうに、ピアノに対しての愛情が感じられる場合があります。
長年教師をやっていますと、その生徒の演奏から、その生徒が何を考え、感じ、人としてどう生きているのかさえわかってしまうものです。例えば、ある演奏を聴いていて不愉快な気分になることがあるとします。それは、演奏そのものに問題を感じているというよりも、悲しいかな、その演奏者の性格、考え方、生き方に対してのある種の嫌悪感なのかもしれないと感じる時があります。
芸術家が生きてゆく上で、「社会的成功」を目標とすることは大きな過ちだと感じます。芸術を志すということは、行きつく所、人としてどう生きるか?ということ意味し、作品を通して自己と向き合うことに他なりません。それを目標として日々精進することで、「社会的成功」は後からついてくるに過ぎないのです。残念ながら、本末転倒になる若者は多いと思います。
ピアノを勉強するということは、人から人へ受け継がれて行くことであり、机上の学問ではありません。そこには、心と心のコミュニケーションが大切であり、その力があるかないか?で上達度は左右されるのではないでしょうか。
音色とは?それは倍音の中に存在する音の魂といえます。
およそ100年前のニューヨーク・スタインウェイを弾いたことがあります。新しい楽器にはない独特の響きに魅了され、まるで自分がラフマニノフの時代のニューヨークで弾いている錯覚にとらわれました。
芸術を追求するということに終わりはありません。既に70歳近いエリソ・ヴィルサラーゼは、もっと合理的な奏法はないものか?と今でも研究し、既に現役を引退している偉大なソプラノ、エレーナ・オブラスツォワは最近になってPPの出し方がわかった!とおっしゃっているそうです。先ごろ亡くなられた桐朋学園大学の名誉教授、江戸弘子先生も、80歳になっても新しくスタインウェイを購入され研究を続けていたそうです。
声楽は根源的な楽器ですから、ピアノ弾きにとって良い影響があると思います。最近、モーツァルトを聴いていて、やはり思うのは、彼の頭の中では人の声が鳴っていたように感じるのです。基本的に「線」で出来ている音楽だからかもしれません。そういう観点で、例えばピアノコンチェルトの3楽章などを聴いていますと、ちょっとテンポが速過ぎるように感じたりするから不思議なものです。人の声で歌えるテンポではないからです。
狂わない、そして、良い歯並びのごとく揃った音程が良い調律だと思っているピアニストが多いことは残念です。
調律が終わって試弾するときに、確かな感覚を持ってその調律を判断できるピアニストは意外に少ないのではないでしょうか。
「3拍子がとれない日本人」とよくいわれるが、私はそうは思いません。3拍子を生き生きと弾くことのできる日本人はたくさんいると思います。これは日本の古来の音楽には3拍子はない、それゆえ日本人は3拍子が苦手だというへ理屈にすぎません。
レッスンにおいて、教師から具体的な技術的指示を受けたとき、人はまるで指先に脳があるかのように錯覚しがちです。
それにより、手はもちろん、身体全体まで、突然の予期せぬ指示に対して力みが発生しやすいと思います。
大切なのは、あくまで指令を出すのは脳であることを意識することにより、そのような状態に陥ることは少なくなるのではないでしょうか。
ショパンのフレーズの始まりは、殆ど全てが強拍ではなく、弱拍に存在します。
究極的にレッスンとは教えてもらうものではなく、教師から盗むものです。
「ダンパーペダルの存在は、音を伸ばすためではなく、音色の変化のためにある」と一般的に言われていますが、それを実感できているピアニストは少ないと思います。
響きが濁っているのは、ペダルの使い方が悪いのではなく、実はタッチそのものが悪いからです。そしてそれを聴いていない耳が悪いからです。
響きが濁っているのと、響きが混ざっているのは、似ていて非なるものです。
たかが属9の和音でも、ドビュッシーの手にかかると、何と美しいことか!
技巧は人を驚かし、技術は人を感動させます。
技巧はあっても、技術のないピアニストは多いと思います。
フォルテが立派に出せるより、ピアニッシモが美しい方が惹かれます。
倍音豊かなピアニストは、狂った状態のピアノを弾いても、倍音で合わせることが出来きます!
音色の技術を持っていないピアニストほど調律師に注文が多いと思います。
モーツァルトは35歳、シューベルトは31歳、ショパンは39歳、それぞれ若くしてこの世を去ったにもかかわらず、その作品内容から人生の晩年を迎えていることが判ります。
J.S.バッハの音楽を聴いていると、不思議なことに、脳内にα波が出てくるのがわかります。
同じドイツ語圏であるドイツとオーストリアは、一般的に同じようなイメージを持たれているが、実際は全く違った文化を持った国です。演奏するうえでも、その事実を念頭に置いて配慮するべきです。
リストはハンガリーの作曲家といわれていますが、その作品内容から、また実際の彼の生活から、彼に国籍はないと感じます。
J.S.バッハとスカルラッティ、ハイドンとモーツァルト、シューマンとショパン、ドビュッシーとラヴェル、スクリャービンとラフマニノフの具体的な弾きわけを認識し、実践している演奏家や教師は少ないと思います。
我が国において、ピアノの上達の為に色々な道具が開発され販売されていますが、それを推奨している教師、それに依存しているピアニストに問うてみたいと思います。そのような道具に依存しなくても素晴らしい演奏が出来るピアニストは世界中に存在するという事実をどのように思っているのかということをです。
左脳と右脳の役割というものが一般的に言われています。ただ、私自身も感じ、今日生徒にも確認したのですが、感覚を研ぎ澄まして演奏している状態は、目が奥に入って行くような感覚で、後頭部のあたりに意識の集中を感じます。その逆がこめかみのあたりやおでこのあたりの脳を使っている状態です。そのような状態で弾いている演奏は、機械的に聴こえてくるものです。
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