インターネットが普及して早数年がたち、世界中の国際コンクールの模様がネットで配信され誰でも簡単に見ることができるようになりました。第1次予選から本選に至るまで、時差の影響で、すべてのコンテスタントの演奏を見るには体力が要りますが、可能な限り予選の段階から見るようにしています。
「10年ひと昔」と言いますが、最近、ことにこの10年の間の主要な国際コンクール優勝者の演奏に対して、ふとした「心の違和感」を感じるのは私だけでしょうか?
そもそも、国際コンクールにおいての演奏の傾向、またそれに対する評価の傾向は、その時代により変化していると思います。それは、審査員の評価基準の変化でもあり、その時代の世界中の教育現場でどのような傾向の教育がなされているか?ということがわかります。
2010年度のワルシャワにおけるショパン国際コンクールの結果を除き、他の国際コンクールの優勝者の演奏を見ていると、そこにはある種の共通する傾向を感じてしまうのです。
ひとことで申し上げますと、その演奏から連想される言葉は「正三角形」です。
その演奏は、「どんなことでも表現できます!」といわんばかりの多彩さと文句のつけようのない完璧な正確さで説得力を持って演奏されるのです。
私は、教育者という立場から、生徒たちにそのような演奏をさせるべく指導するべきなのか?ということに疑問を感じます。一寸のくるいもない見事なまでに整った「正三角形」のような演奏が、圧倒的な主張をもって聴衆を魅了するのはわかりますが、よくよく冷静に考えてみると芸術的というより、スポーツの競技会のように感じます。その演奏には、「香り」がないのです。
いわゆるコンクール屋と呼ばれる、どこの国際コンクールでも必ずいるような審査員たちが、このような演奏を評価、賞賛していることに怒りさえ感じます。
先にも挙げました、2010年度のショパン国際コンクールでは、コンクール屋と呼ばれる審査員たちは排除されました。教育機関に在籍していない、主にフリーで演奏活動をしている過去のショパン国際コンクール入賞者たちで構成されました。これにより、そうではない国際コンクールとは、評価基準が違った結果になったと思います。優勝したユリアンナ・アヴデーエワは、ありがちな「正三角形」の演奏ではなく、非常に思索的で深い音楽、ショパンの「香り」がありました。私個人としましては、真の意味で圧倒的な演奏をする本物の芸術家だと思います。デビュー後の彼女のリサイタルのプログラムの構成も、ありがちなオール・ショパンではなく、ワーグナー=リストのタンホイザー序曲があるなど、彼女の音楽における、趣向、理想が感じられます。
私は芸術家として、自身でも模索しながら、作品のあるべき姿を追い続け、それをまだ若い生徒たちに、「教え込む」のではなく、一歩下がったところから示唆するべきだということを再認識しました。
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