青山にデザイン事務所を構えていた。
まだ青山通り(246号線)にVANもない時代の話である。
北青山の交差点の角にホンダの本社が出来て,ツインビルの2階に俳優の津川雅彦さんが、おもちゃの店をオープンした。
名前は、「グランパパ」じつにおしゃれなネーミングの店である。
さっそく僕の事務所の女性がグランパパを偵察に行った。
「あったわよ。社長が好きそうなブリキのおもちゃが」と、我が事務所の女性デザイナーの報告。
僕はブリキがあると言われ、即「グランパパ」へ直行した。
店には、あの津川雅彦さんが品のよいおばさま方と雑談していた。
僕は店内をウロウロ。
そうたくさんブリキのオモチャがあったわけではないが、確かに数十個並べられていた。
ブリキのクルマを眺めていたら、津川さんが僕のそばに来て、「そのブリキのクルマはドイツ製で,僕のコレクションの一部です」と、説明してくれた。
「そうか、津川さんのあと僕が所有するのも悪くはないな。それに友達に自慢できる」と、ミーハーな僕は、ドイツ製のブリキのクルマを2台購入した。
確か一台が2万円ほどしたかな、少々高かったが津川さんがすこしおまけしてくれた。
嬉しくなって、ブリキのロボットを5個、まとめ買いした。
ほかの店で買ったら当時8000円はすると思われるロボットが、確か1000円と破格に安かった。
歓び勇んで事務所に戻ったら、「きゃー、このロボット可愛い」とか言われ、あっと言う間に4個奪われた。
まったく手が早い社員たちである。
しかたないから仕事のあと、ロボットを買いに出かけたがすでに完売していた。
じつに泣ける話である、
ブリキを集めだしたのは、20代中頃。
僕の会社のクライアント、富士ゼロックスの宣伝部長が骨董好きで、そのお供で虎ノ門周辺の骨董屋巡りをしたのが、きっかけである。
骨董には興味がなく、また骨董が買える身分ではなかった。
でも部長が骨董の良さを説明してくれるから、知識は身についた。
薩摩焼には表と裏があるとか、丹波焼きと備前焼の違いなどはしだいに識別できるようになった。
だが依然として骨董を買う気にはなれなかった。
そんなある日店先でブリキのオモチャが転がっているのを見つけた。
「叔父さん、このブリキいくら?」
店主に尋ねると、
「いくらでもいいよ」
なんて,気楽な対応である。
「じゃあ、300円でいい」
と、いうと、
「いいよ。もうひとつ小さいブリキのクルマはあげるから持って行きな」
と、まことに気前がいい。
これは部長が高い骨董を買ったからではなく、ブリキが骨董としての価値がなかったからである。
まさにブリキおおらか時代で、ブリキはまったく世間に注目されていなかった。

ブリキが人気を集めだしたのは、「なんでも鑑定団」の北原照久さんの功績が大きい。
北原照久さんとはイラストレーターの秋山育さんを通じて多少面識はあるのだが。
昔のことなので僕のことは憶えていないと思う。
秋山育さんと僕はブリキ友達で、下北沢のカフェSODAPOPのイラストは秋山育さんにお願いした。
北原照久さんと秋山育さんは知り合いで、北原さんが秋山育さんの事務所を訪ねたとき、ブリキが飾られているのを見て感動。
そのときから北原さんはブリキのコレクションを始め、あっという間に僕らの何十倍も収集。
いまや日本一のブリキ・コレクターになった。
僕はブリキ・コレクターではないから、ろくなものは持っていない。
津川雅彦さんから譲っていただいたドイツ製のブリキのクルマがいちばん高そうで、あとは安物ばかりである。
そのドイツ製のブリキのクルマを,度重なる家の引っ越しで一つ紛失してしまった。
真剣に探せばどこかから出てくる可能性があるのだが、いまのところ見つかっていない。
なにしろ渋谷の3LDKの住まいから1DKの狭いアパートに越してきたので、いまだにジャンクや雑貨はアパートの9畳間に段ボールで荷積みされたままである。
3ヶ月ほど前に一度。
段ボールから取り出してガラスケースに収めたが、面倒なので途中で中断。
そのまま放置してある。

20代の後半から、ジャンクやヴィンテージを好きになり、気になるものはつい買ってしまう。
いまやその数、約1000個が1DKのアパートの2階の部屋にころがっている。
ブリキ収集から始まったヴィンテージ・コレクション。
甲府市に寄付したいと思っているのだが、「そんなものいりません」と、断られそうなので、どうしたらいいものか迷っている。