陳情令を見てシャオ・ジャンのファンになった。

中國だけではなくアジアを中心に世界的に愛されているシャオ・ジャン、

その魅力の源は、

「ファンの見たいシャオ・ジャンを見せてくれる」ことだ。

これがシャオ・ジャンの

「ファン愛」である。

 

その「ファン愛」に応えるために

彼のファンは

シャオ・ジャンのために彼が推す商品を買い、

彼が関わる活動への貢献、寄付等を行い、

彼がエンターテインメント業界でトップを維持するために

あらゆる努力をするのだ。

 

<俳優として>

 

シャオ・ジャンの創り上げたキャラクターを追ってみたい。

 

天真爛漫な少年、陰のある傷ついた青年、愛を見つけた幸せな姿を見たければ

「陳情令」

 

自由で野性的で強く一途だけれど潔い青年を見たければ

「狼殿下」

 

父と母を恋い慕う無垢な子どもから強い大人に成長し、

愛する人のためならば命もかける熱い姿を見たければ

「斗蘆大陸」

 

挫折から立ち直り、愛を得て、社会的な地位を確立し

、社会への貢献と豊かな家庭を築いていく姿を見たければ

「夢の中の海」

 

ピュアで一途で優しい青年を見たければ

「太陽は私と共に」。

 

潔癖で優秀だが心に傷を持つ医師が、

若くて前向きな女性に恋をして

無機質な人間からよく笑い人を愛する爽やかな青年に

変わっていく姿を見たければ

「これから先の恋」

 

残念ながら「玉骨遙」は見ていないので、次に譲る。

 

これらのキャラクターは

一つひとつ異なった個性を持っている。

その一人ひとりがその人の人生を生きていると視聴者は感じる。

その姿はファンが

シャオ・ジャンになってほしいキャラクターだ。

ファンが求めるものを

誠実に見せようとするシャオ・ジャンの姿勢に魅せられるのだ。

自分が出演するドラマや映画を選ぶとき、

自分が納得できるキャラクターを選んできた

シャオ・ジャン、

どの役も芯には「人を思う優しさと強さ」がある。

これはシャオ・ジャン自身の生きざまに裏打ちされたものだ。

 

次はどんなシャオ・ジャンが見られるのだろう。

ファンは皆その期待を込めて彼を応援する。

 

「愛される俳優になりたい」という意志を実現するために、

人生のすべてを捧げている姿に感動しない人はいない。

「炭水化物をやめる計画はうまくいかなかった」

と反省するシャオ・ジャンだが、

そういう努力が美しい容姿を造っている。

美しさは努力だと思わせてもくれるシャオ・ジャンである。

 

彼の演技の見どころは、同じ情景であっても、

違ったキャラクターでは違った表現で魅せるところだ。

 

「太陽は私と共に」で見せるピュアで一途なシェンヤンと

「狼殿下」のシッチュウで見せる一途な青年、

同じ一途さでもそのキャラクターによって違う。

現代ものと歴史ものとの違いは当然あるのだが、

同じような行動を例にとって考えてみよう。

 

衝動的に接吻を求める行動、

シェンヤンとシッチュウとの人物像の違いが

見事に表現されているのに感動する。

 

愛する人の心の中にはすでに運命の人がいて、

それでも忘れられない想いを

酒の力を借りて吐露せざるを得ない切なさ、

自爆的なシッチュウの恋慕、

直情径行の性格を表す行動の後

拒否されて倒れて眠ってしまう可愛い姿、

シッチュウの面目躍如だ。

 

それに比べて、

「太陽は私と共に」では、

同じように抑えきれない想いを行動で示す

シェンヤンは、

衝動的な接吻の後ギュッと彼女を抱きしめ

震えているかと思えるような

ドキドキ感を見せる。

相手の女性がそっと背中に手を回してくれたのを感じて、

ほっとした笑顔になり

もっと強く抱きしめる切なく甘いシーン、

可愛く思っている青年にこのような愛の告白をされたら

年上の女性にとってはたまらない。

全身が貫かれるような想いに瞳を空に浮かせ

恐る恐る彼の背中に手を回す

女性の初々しさも捨てがたい。

二人の恋が実った瞬間だ。

 

この二つの演技、

それぞれのピュアさは変わらないのに、

その表出の有り様は全く違う。

それぞれの役の個性にふさわしい演技だと言えるだろう。

 

表情で言うと、

「陳情令」でのウェイ・インの千遍万化の表情は言うまでもないが、

「夢の中の海」のチュンシャンの表情は

シャオ・ジャン演じる他のキャラクターとは顔そのものが違う印象を与える。

それは上唇の表情だ。

素では可愛い唇が少し引き締められた唇で演じることにより

精悍な印象になる。

言葉では言い表せない微妙な変化だが、

これはシャオ・ジャンの顔ではなく、

チュンシャンの顔だと思わせる、

これがシャオ・ジャンの演技なのだ。

 

「太陽は私と共にある」では

ほぼ素のシャオ・ジャンを見ることができる。

普通の家庭に育ち、家族を大切にし、

時にはわがままもするが、父と母を愛しそして愛される息子、

シャオ・ジャンの俳優になるまでの人生を思わせる魅力が詰まったドラマだ。

親を愛し尊敬するが

自分の意志はしっかりと貫く強さと、

他者への思いやりがあふれる。

また、年上の女性を一途に恋する行動の一つ一つが心を打つ。

酔った彼女をホテルに寝かせるだけでそっと帰っていく潔白さ、

彼女を楽しませるための心のこもった贈り物、

キャンプ場でのイルミネーションと花火、

彼女に言い寄る男性に嫉妬し自分のものにしたいと強引に接吻する若さ、

そのやるせない思い。

父親との軋轢に苦しむ彼女を救うための心のこもった思いやり。

多分素のシャオ・ジャンもこんな風なのだろう。

この一途な青年に愛される女性は、

子どもの時から男女間の愛の裏切りを知り、

大人になっても夫の不倫という裏切りに会い、

男性を信じられなくなった人だ。

16歳の時に初めて会ってから26歳になって再会するまで

10年間あこがれ続け、

その姿を絵に描きながら思い続けたピュアで一途な青年の愛が

彼女の心を開かせるのだった。

 

シャオ・ジャンが見せる

恋する青年の愛する人を見つめる瞳の魅力。

切ない想い、

会った時の喜び、

嫉妬、

拒否された時の悲しみ、

本当に恋しているのが伝わってくる。

 

陳情令で、ラン・ジャン(ワン・イーボ)が魅せた

ウェイ・インを見つめる凝視は

相手の心を貫き引き寄せるきらめく光だが、

シャオ・ジャンの見つめる瞳は

優しさと憧れに染まる朝焼けの空だ。

シャオ・ジャンの瞳が

まるで「吸い込まれるような」と表現される場面は

それぞれの役割の中で必ずある。

どの監督も

シャオ・ジャンの瞳の魔力に魅せられているのだろう。

そしてファンもまた

心を映す彼の大きな瞳を愛してやまない。

 

持って生まれた自分の価値を磨くために、

外見だけではなく内面でも豊かな知識を身につけ、

俳優として「役になり切る」ことを

最も大切な俳優魂と考えるシャオ・ジャンだ。

 

<歌手としてのシャオ・ジャン>

 

「如愿」は彼のための歌だと感じている。

元歌の歌手の歌や、

今中国で一番人気の男性歌手周深なども歌っているが、

英語の訳と日本語の訳を書いてくださった方のお陰で

中国語の意味がわかる。

そこで見る歌詞を最もよく表現しているのは

シャオ・ジャンだ。

毎日一度は聴いている。

聴くたびに優しい想いがあふれる。

癒しの歌だ。

素直で誠実な声、

優しさあふれる歌い方、

抒情が高まる後半は強いが激しすぎはしない。

この難しい部分を

シャオ・ジャンは透明な声で力強く歌い上げる。

子どもが母に捧げる愛の賛歌だ。

「未来へ連れて行って」

という歌詞が心に響く。

 

演技と歌の情感の表現には通じるものがある。

シャオ・ジャンの歌には、

その歌詞の意味を深く理解し誠実な声で

人に伝えることができる力がある。

先輩の二人の女性歌手が、

「誠実な声」「すべての言葉が真実」という表現で

シャオ・ジャンの歌を評価していたが、

どんなジャンルの歌でも歌いこなせるのは、

その歌を歌詞も曲調も含めて理解する天賦の才能であろう。

 

演技でも歌でも根本は一つ、

素の自分を無くしてその役になり切る潔さだ。

 

しかし素に戻った時には、

礼儀正しく慎ましく

人への配慮に心を配る誰からも愛される人間性を持ち、

自分の人生に責任を負いながら

未来を見る強さを感じさせてもくれる。

 

シャオ・ジャンを探求すればするほど

その魅力が増していくのは、

彼が日々成長しているから、

それを言葉にし実行しているからであろう。