毎月第一木曜日はおきまりで、飯田橋のラグタイムでピアノの川島茂さんとデュオでライブをした。
ラグタイムはウナギの寝床みたいな長細いセピア色の店内にアップライトピアノがひっそりと置いてあって、昼間は珈琲屋、夜は毎週木曜日と金曜日にライブ演奏があった。
けっこう面白いミュージシャンたちが出演していた。
何よりも物静かでひょうきんでおっとりしたマスターのお人柄で、楽な気持ちで演奏できたし、常連のファンたちもこの店を愛していた。
今では夜のライブはやめてしまったと聞いたが、コーヒー屋は続けているのだろうか。。。。

 

 

ラグタイムの何軒か先のはす向かいには島という沖縄一杯飲み屋があって、
ジャズファンのお仲間とそこで腹ごしらえしてラグタイムでライブをするのがいつもお決まりのコースになっていた。
島のご亭主も仕事をサボってはちょくちょくライブを覗きに来ていた。。。。。

 

 

演奏するお店の周囲にかならず気の利いた一杯飲み屋を見つける達人はピアノの大野三平さんだった。
安くて旨くて、店の主人は人がいい。
大野三平さんの発掘する店はどこものんびりしたあたたかいどこか間の抜けた雰囲気があった。
また三平さんには、いやでもどこか人をよくさせるオーラが出ていたのだが。。。。

 

 

「中央線沿線で歌ってるなんてジャズ歌手として認めないわよ。あんた。」
高田馬場でおカマにからまれたことがあった。
ああ、そういえば私の活動舞台は、ほぼいつの間にか中央線を網羅していた。
吉田拓郎の「高円寺じゃないよね~」というフレーズが耳について上京して住んだ町が高円寺。
どこか四畳半的なアンニュイが私の中の東京だ。。。。

 

 

7年ぶりの東京

在韓日本人、祖国に帰るの巻。
失われた時を求めて帰るのだろうか。それとも新しい何かを探し行くのだろうか。
いや、なつかしい皆さんの笑顔に逢いに行きます。

 

 


<広瀬麻美TOKYO ライブ 2Days> 


10/12(水)高田馬場 Cotton Club 7;30~

 

10/13(木)赤坂 Tonalite 8:00~
   13日のブッキングしてくれた川島茂さん、ありがとう

 

 

東京の阿佐ヶ谷は17年間住んだなつかしい街だ。


小さな街なのにジャズ屋がいくつもあって、東京でジャズストリートが始まったのもこの街だ。
阿佐ヶ谷マンハッタン、クラヴィーア・・・

個性的なマスターがいて若いジャズミュージシャンを育てる伝統は今も続いているだろうか。

 


釜山に渡る前、東京生活の最後の頃、

その頃は井の頭に住んでいたが、

なぜかいつも阿佐ヶ谷で電車を降り北口の穴ぐらに吸い込まれていた。

 


店の名前は「スターダスト」

 


時代と空間を越えてトリップしながら暗闇の地下に降りていくと、いつもそこにコルトレーンの音の渦の中で益田さんが迎えてくれた。
その頃
当時もう酒を飲まなくなっていた私は、益田さんの入れてくれる香り豊かなブラックコーヒーを楽しんだ。
ライブの帰り、上がったテンションは、益田さんの回してくれるチリチリとした暖かいレコードの音に癒されて身も心もリセットできた。

 


コルトレーン、ビリー・ホリデイ、エリントン・・・
益田さんのjazz談義を横耳で聴きながら、
彼女のいたずらっぽい微笑みとウイットに笑わされながら、
jazzの巨匠たちが益田さんを中心に身近なものになっていた真夜中の不思議な時間たち。。。

お身体が悪いとは聞いていたがいつも与えるパワーがたくさんの方だった。
だから病気もウソのようであまり信じられなかった。

 


大きな声では言えないが

ミュージシャン価格といって、いつも500円、
コーヒーを何杯飲んでも、駄菓子をいっぱい出してもらっても(真夜中に、、、)
ガールトークもいっぱいして、

レコードもいっぱい聴かせてもらって、
わざとジャズヴォーカルをかけようとしてくれているのを知り
あんまりヴォーカルは聴きたくないんだというと
そうですかなるほどわかりましたといってウフフと笑い
しょぼくれて泣いているようなトランペットに耳を澄まし
この時のマイルスはいったいどうしちゃったのかしらと
愛しむようにジャケットを眺める
一緒にすごしたなつかしい貴重な時間たち
500円さえも受け取ってもらえなかった時もあった。

 



それから釜山に来て3年目の夏、益田さんの訃報を聞いた。

 



私は7年ぶりに東京に益田さんにお逢いしにいく。
たくさんのお土産話をかかえて。

 


10月12日、高田馬場「Cotton Club」にて

益田順子さんに感謝を込めて追悼ライブを捧げます。

 

 

 

 

 

 

呼んでくださった加藤まもる様、ありがとうございます

 




町中に韓国の国旗、太極旗たなびく8月の韓国、釜山。
8月15日、今日は韓国では解放独立の光復節。
道行くバスに、家々に、町中いたるところに旗、旗、旗。
毎年のことながら、日本人としてはなんとも苦い気持ちにさせられてしまう。

そのとき
1945年8月15日
国家を取り戻した喜びに沸き酔いしれる韓国で
5年後に起きる戦禍の悲劇を誰が予想しただろうか。




釜山の西は、カムチョンマウル(甘川文化村)という
山の斜面に密集するマッチ箱のような家々が
彩りも豊かなアートな装いで生まれ変わり、人気の観光スポットがある。
先日初めて探訪した。
それはディープな釜山だった。。。








わたしは釜山に住んで6年
釜山の東は高層アパートの摩天楼、ヘウンデの砂浜、タルマジ峠、カンアリのダイアモンドブリッジ。
洗練された場所ばかりに親しんできた。
でもそれは表面的な釜山に過ぎなかった。





1950年6月25日
韓国動乱が起こり、UNの参戦とともにその戦いは世界中を巻き込んだ。
UNがその機能を発揮した、もしかして最初で最後の仕事ともいえるのか

釜山はその戦火を逃れる民衆が命からがらなだれを打って逃れた最南の地。
家を焼かれ、着の身着のまま、38線を越え韓半島全域から数百万の民があるいてたどりついた地。






ソウルが陥落し、釜山は臨時首都になった。
釜山は戦争を避けた難民が移り住んで人口が爆発的に増加した。
北は8月15日の解放記念日を釜山で祝おうと 50日の戦闘作戦日程を計画し、
逆算して6月25日の総攻撃が決定されたという。
しかし釜山は奪えなかった。

戦争の荒廃で韓国はアフリカの最貧国よりも更に
世界で最も貧しい国になった。
ひしめく釜山の難民は丘の斜面に掘っ立て小屋のバラックを作った。
日本でいうならば山の手の住宅は優雅に聞こえるが
釜山のそれは最貧民のスラブ。
所狭しとならぶ家々。
路地裏に迷い込めば怪しい危険の匂いがする。
私の知らなかった釜山のもうひとつの顔。





カンチョンマウルに行ってからわたしは
もうひとつの釜山に恋するようになった。
いとしい人のもうひとつの顔を知ってしまったように。






お金を稼いだ人たちは、別の土地に家を買って村を離れていった。
不便な丘の斜面には貧しい人たちだけが残された。
2009年、地元の芸術家達の手が加えられ
カムチョンマウルはまるで釜山というキャンバス地に描かれた美しい絵のように甦り咲いた。
まだまだ丘の斜面の部落はそこだけじゃあないけれど。。。





町中に太極旗たなびく8月釜山。
8月15日、今日は国に光が戻ってきた光復節
日本の植民地による痛手は
韓国動乱のひとつの原因ともいえないだろうか。




釜山の西
戦後の混乱を生き抜いてきた
民衆の息遣いを感じる丘の斜面
もうひとつのあなたの横顔

これからは道を共に
同じ方向を見つめて歩いてゆく。
過去も未来もひとつに溶け合い
新しい郷愁となって心が一杯にになった。






終戦記念日の日本へ

                    まだ戦争が終っていない韓国より




参考
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39685
http://nekonote.jp/korea/old/mil/war/04.html