三顧の礼とは、三国志の時代、劉備が当時若造に過ぎなかった諸葛亮の元を3度にわたって訪れ、礼を尽くして迎えた故事のことである。
しかし、この三顧の礼、日本人には理解できない裏の意味が存在します。

この三顧の礼ですが、おそらく後世の創作で、たぶんフィクションでしょう。
モデルとなったのは、周の文王が姜子牙(呂尚)を配下にしたときの故事(太公望の語源)に少々手を加えたものでしょう。


さて、この文王の故事、釣りをする(ふりをした)呂尚の隣でじっと待ち、礼節を尽くして賢人を迎えたという、文王を称えているように見えます。確かにそうなのですが、中国で評価されるべきは釣りをしていた(ふりをしていた)呂尚の方なのです。

呂尚はわざと文王を無視していました。それは、礼節云々を見極めるためといった理由ではないのです。自分を売り込むためです。自分が釣りをするふりを続けることによって、文王を待たせるのは失礼と日本人なら考えますが、そこは中国では解釈が違うのです。自分が文王を待たせることによって、文王は釣りの邪魔をせずに礼節を尽くして賢人を招いたと言う噂が広まります。そのため呂尚はそのような行動をわざととったと解釈するのが中国人的考えです。そうすることによって主君の文王の評判も上がり、またそのような行動を取り、主君の評判を上げた自身の評判も上がる、一石二鳥なのです。


小説(フィクション)の場面ですが、三国志における三顧の礼で、昼寝をする諸葛亮の脇で、じっと劉備が待つ場面があります。劉備の舎弟である張飛はそれを見て烈火のごとく怒り、家に火をつけようとするところを劉備にたしなめられる場面は有名です。おそらくこの諸葛亮は狸寝入りです。わざとやっています。そうすることによって、劉備には若造を3度も訪れ、昼寝を妨げることなく礼を尽くして賢人を迎えたと言う評判が立ちます。同時に諸葛亮はこのようにして主君の評判を上げたことが評価されます。


この辺は日本人の感覚では理解できませんが、現代中国において、このような例は今も尚存在しています。

三蔵法師と言えば、『西遊記』にも見られるとおり、多くの人が名前を耳にしたことがあるでしょう。

『西遊記』に見られる三蔵法師は、玄奘(602~644)をモデルに、明代に呉承恩が小説としたため広くは知られていますが。三蔵法師とは、玄奘のことを指すわけではないです。


そもそも「三蔵」とは、仏教の聖典である「経蔵」「律蔵」「論蔵」の事を指します。この3つのすべてに通暁した人のことを三蔵法師というわけです。

なので三蔵法師は固有名詞ではありません。鳩摩羅什(344~409)も三蔵です。


ちなみに中国で仏教が最も広がったのは唐代玄奘の時代です。玄奘は天竺行きの話ばかりがクローズアップされますが、天竺から中国へ持ち帰った経典の数は1347巻にも及び、これは世界の翻訳史のなかにおいても、まれに見る量であると言われています。


一般的には清朝の乾隆帝の時代が中国の歴史上において、もっとも広大な国土を誇り、もっとも隆盛の時代と言うかもしれない。しかしそれは同時に終わりの始まりであった。


乾隆帝は政治の面では名君だったのかもしれない。実際乾隆帝の農業政策によって、サツマイモ、ジャガイモ、とうもろこしなどを普及させたことにより、国庫は豊かになりました。(一時的ですが)


そして乾隆帝と言えば十全武功です。これは清朝の辺境諸国、ジュンガル(ウイグル)、ミャンマー、ラオス、ネパールなど10度にわたって外征したことによります。この十全武功によって清朝の版図は、ほぼ現在の中華人民共和国と同じになります。ちなみに東トルキスタンを現在の「新疆(ウイグル)」としたのも乾隆帝の時代です。


中国史上自分ほど幸福な皇帝はいないと、一見清朝最大版図を誇ったまさにこの世の春を謳歌していたように見える乾隆帝ですが、清朝の衰退はすぐそこまで迫っていました。度重なる外征で国庫は疲弊したのは言うまでもないでしょう。驕れる者も久しからず。輝かしい武功の裏で、政権の中枢の腐敗は始まっていました。寵臣である和珅の専横です。要はこの和珅は乾隆帝の寵愛を受けていることをいいことに全く咎められなかったため、悪事を重ね私服を肥やした金の亡者というやつです。その私財は国家収入の10数年分とも言われたとか。
その後政治の腐敗から全国的に清水教の乱や苗族の乱など、各地で反乱が見られましたが、これらはすぐに鎮圧されました。


中国の王朝の交代劇の裏に宗教結社有り。中国では社会のほころびが見え始めると、人々は迷信めいた宗教をよりどころにし、民間宗教の勢力が強くなる傾向があります。


乾隆帝は在位60年目に退位して帝位を息子に譲り、自らは太上皇帝となります。つまり院政です。その数ヵ月後、清朝崩壊のきっかけとなる大反乱がおきます。それが白蓮教徒の乱です。