◆九州旅行記:その11◆ | メータの妄想日記

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猫ちゃんとお別れして今度は眼鏡橋へ。


小学生の頃、国語の教科書で見て以来なんとなく来たいと思っていた場所です。


それから出島へ向かう途中に路面電車の行き先がわからなくなって、杖をついたおばあさんに道を教えてもらった時に

「出島まで案内してやりたかとですけど…」

と申し訳なさそうに言われたのが記憶に残っています。


長崎市は観光客も多く長崎市民も親切な人が多いと聞いてはいたけど、さすがに杖をつくほど脚に不安があるようなお年寄りに道案内してもらうのは、いくらなんでも逆にこっちが申し訳ないです。


結局なんとか出島へ行くことができました。


ところが現代の出島の姿に失望しました。


現代の出島は周りがすっかり埋め立てられてビルが立ち並び、面影を残すのはアーチ状に組まれた石垣と橋くらい。


「仕方ないよな…」というあきらめと「変わらないでいてほしかった」という気持ち、両方で揺らぎつつも橋を渡って見学しに行きました。


これは昔の出島を再現したミニチュア。


出島の中にもいろんな場所があるけど、わたしはこの仔牛の骨のところに来た時、ちょっとだけ涙が出そうになりました。


説明書きには

1796年ジェンナーにより発明された天然痘の予防法である牛痘法による種痘は、オランダ商館医モーニッケや蘭方医 楢林宗建(ならばやしそうけん)の努力によって、わが国では嘉永2年(1849)に初めて成功しました。その後、種痘は全国に普及し、天然痘蔓延の予防に大きな効果をあげました。
これは、出島菜園跡の発掘調査で出土した仔牛の遺体です。調査では5頭分の骨が出土しましたが、食肉用に解体されたものではなく、埋葬された状態で発見されました。牛痘苗の作成に使われた仔牛の遺体である可能性があります。


…と書かれてありました。



天然痘は人類が初めてにして唯一根絶することに成功した感染症。



多くの人の努力があったことは知っていても、この仔牛もわたしたちの今の健康のために力を貸してくれたんだと思ったら、心の底から「ありがとう」と思わされました。



それからこの瓶も興味深かったです。


酒はZAKYで醤油はSOYAと書かれていたのを見ると当時の日本人の発音だったり、オランダ人の耳に聞こえた音が気になります。


そして割れたお皿のデザインを見ると

「あぁ、やっぱり江戸時代に作られたって感じがするなぁ…。」

と思いながら、こういった江戸時代の遺物が地面を掘れば出てくる環境がうらやましく感じました。


そして出島の後はまた路面電車に乗って、今度は原爆資料館へ行きました。


永遠に11時2分をさした柱時計は入り口の一番最初にあり、その奥へ進むとより悲惨さを訴える当時の品が数多くあります。


写真撮影はフラッシュをたかなければOKでも、とても写真を撮るような気分にはなれないし、この時はとにかくお腹が痛くて見て回るのが精一杯でした。


実はわたしの父方の祖父は当時、特攻隊に志願し九州の飛行場へ行く途中、広島と長崎の両方とも原爆を見て、そのまま普通に戦後を過ごして10年以上前に死んだものの、その死についてはわたしたち家族も医者たちも疑念が残るものでした。


でも医者からの解剖の申し出も断ってしまったし、被爆者手帳があるわけでもなく、原子爆弾の障害作用によるものかを確認しようとしたわけでもなく、原爆症認定の申請もしなかったし、被爆者手当を貰おうとも考えなかった。


ただ原爆の被害にあった最後の場所が、永遠に長崎であり続けてほしいと願わずにはいられなかったです。


腹痛を抱えつつ佐賀へは新幹線で戻りました。


新幹線なんて高校の修学旅行の時以来。


西九州新幹線は日本一区間が短く、車両は最近できたばかりでとても綺麗。


中もこんな感じで何の汚れもありませんでした。


車体も真っ白でピカピカ。


傷もへこみもシミも錆びもなく、こんなに立派な新幹線に乗れたことを嬉しく思いました。


新幹線から降りて佐賀駅の改札を通ろうとすると

「ようきんしゃったね~佐賀へ」

の文字が目に入り、何となくだけど特別な感じがしました。


そして実は佐賀でぜんざいを食べることは以前からの夢で、理由は連続テレビ小説「おしん」で佐賀の姑がおしんだけにぜんざいを食べさせないという意地悪をしたから。


↑姑の清(きよ)が

「みんなでぜんざいば食べたて、言い触らすとじゃなかよ。」

と言ったシーン。


これを見た時、仲間外れが許せなくて

彡(^)(^)「そんならワイは佐賀行ったら絶対にぜんざい食ったろ!」

と誓ったからです。


夢がまたひとつ叶い、おかげで佐賀で食べるぜんざいは格別でした。


◇◆続く◆◇