慶応3年4月23日(1867-5-26)大州藩から借り受けた海援隊操縦の
「いろは丸」が大坂に向かっている時、備中国笠岡諸島の六島付近で
紀州藩軍艦「明光丸」と衝突し大破した「いろは丸」は備後国鞆の浦に
曳航中に沈没した。 <いろは丸沈没事件>
坂本龍馬らは鞆の浦に上陸して紀州藩と当地で一次賠償交渉をした。
写真(27)鞆の浦のシンボル「常夜灯」 、安政6年(1859)建造
基礎石から宝珠まで5.7m、港の常夜灯としては日本一です。
当時、ニシン油を一日5勺消費したそうです。
写真(28) 「常夜灯」の右に「いろは丸展示館」がある。
写真(29)「いろは丸展示館」
鞆港に面した、江戸時代末期の木造二階建の土蔵(面積211m2)を
利用した「いろは丸沈没事件」に関した資料が展示してある。
写真(30)坂本龍馬
写真(31)いろは丸の模型
写真(32)平成いろは丸
現在、鞆の浦と対岸の仙酔島を航行している観光渡船の
「平成いろは丸」 乗客 99名 乗り
写真⑥、対潮楼
坂本龍馬らと紀州藩代表者は4日間ほど鞆の浦に滞在して
賠償交渉をしているが「対潮楼」も使用したようです。
写真(33)旧魚屋萬蔵宅/現・御舟宿いろは旅館
坂本龍馬ら海援隊の宿舎・桝屋清右衛門宅と紀州藩の宿舎
円福寺の中間にある、この「魚屋萬蔵宅」で交渉した。
写真(34)桝屋清右衛門宅
坂本龍馬ら海援隊が宿舎とした桝屋清右衛門宅です。
二階には竜馬の隠れ部屋が発見されて、現在「いろは丸展示館」の
二階にその部屋が再現されていた。(撮影不可でした)
下図は鞆の浦の概略図で、今回の坂本龍馬関係の写真は
(27)~(34)と⑥です。
<ご参考>
1)いろは丸
1867年4月イギリスで建造、1866/9伊予大洲藩が購入
1867/4海援隊が海運業務に使用契約した。160トン、蒸気船45馬力、
マスト3本で帆走可能、全長30間、幅3間、深さ2間
2)紀州藩軍艦明光丸、イギリスで建造
887トン、蒸気船150馬力、全長42間、幅6間、深さ3間
3)賠償交渉は、約1ケ月後の慶応3年5月15日から長崎で再開されて
坂本龍馬側が万国公法による判断を主張して紀州藩が譲歩して
賠償金約8万両で決着した。(80億円?!)
4)坂本龍馬は、賠償金の全額を受領する前に11月15日に京都で不慮
の死をとげる。
5)「いろは丸事件」は、蒸気船同士の「衝突事故」「海難審判事故」として
日本最初の事例とされている。
6)1988~2005年間、4次にわたり沈没付近の海底調査が行われている。
<参考資料>
現地各所の説明資料
Wikipedia いろは丸