備後国甲奴郡上下宿/広島県上下町 | 史跡散策

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古代からの歴史や史跡散策が趣味です。
プロフィール写真は、備後・福山城

 元禄13年(1700)に備後福山藩水野氏10萬石が改易され、再検地で15萬石と算定され、後任の松平氏には10萬石が与えられ残りの5萬石は幕府領として上下代官所が設置されてその内、4萬石を管轄した。 

 享保2年(1717)に約2萬石が豊前中津藩奥平領となり、上下代官所は

廃止され大森代官所の出張(て゛ばり)陣屋となり幕末まで存続した。

 この上下宿は、大森銀の瀬戸内海の港(尾道港および笠岡港)までの輸送ルートに入っており交通の要所として栄えた。 

写真①はJR福塩線の上下駅の正面にある「銀山街道上下宿」です。 

 下図は、現在の広島県府中市上下町上下地区の概略平面図と写真撮影場所ナンバーです。 

 写真②は旧甲奴郡役所跡に昭和5年に落成した洋風建築の上下町商工会館です。平成23年に国の有形文化財に登録された。 

 商工会館を東に進むとすぐ「白壁の道」に入り、左に明治時代当時の当地財閥の角倉家の蔵として建設されたが戦後上下キリスト教会として利用された上下町のシンボル的建物(写真③)です。 

 「白壁の道」の両サイドには白壁とまなこ壁の家が続ている。写真④ 

 更に進むと前方右側に黒漆喰の二軒連結の商家がある。写真⑤ 

 進むと前方左側には明治時代に建造された旧警察署がある。

屋根の上の見張り櫓が珍しい。 写真⑥ 

 写真⑦は上下川の天領橋から下流を見る、上下川はこの先、三次市で馬洗川に合流し更に江の川に合流した後、江津市で日本海に灌ぐ 

 写真⑧は、天領橋のやや下流の昭和橋から上下川と翁山(538m)。 

中世、上下荘園があり、鎌倉時代末期には地頭・斎藤氏の居城があり

南北朝時代には、翁山山頂に長谷部氏の居城があったが関ケ原の戦いの後廃城となった。 

 写真⑨は、上下代官所跡のすぐ東の国道432号の道路脇にある「上下分水嶺」の標識です。 

北への流れは上下川を経て日本海へ、南への流れは矢多田川から芦田川を経て瀬戸内海へ灌ぎます。 

町の中央に分水嶺があるのは全国的に珍しいそうです。 

 上下の地名も「水が上下に分かれる」こと、あるいは「峠」からきているとも云われている。 

 

 写真⑩は、上下代官所跡で建物は有りませんが石垣は昔のまま 

 大森代官所の上下出張陣屋には、約2萬石を管理するため大森代官の配下の手付および手代3~4名詰めていたそうです。

写真⑪は北側から見た石垣です。敷地面積は1,000坪ぐらい??

    下図は、上下町上下地区の概略位置図です。

備後の国のほぼ中央の山間部で大森代官所は北西90km、笠岡代官所には南東40km、尾道港には南33km、広島市には南西70kmの地点です。

 上下町は以前から国道・県道を車で40~50回通っていましたが、訪れましたのは今回が初めてです。

国道から少し入っただけで明治時代から昭和初期の白壁なまこ壁の建物が保存されて良い時間が持てました。 

 

<ご参考>

江戸時代上下は、大森代官所出張陣屋が「石見銀」を元手として上下の有力商人に金融貸付業を営ませ、その利潤によって大森銀産出減少分を補っており、幕府の庇護のもとで行われていたので「上下銀」とも云われていて、広島藩、福山藩にも及んでいた。 

結果として明治時代に入っていても商業金融の町として栄えたが、平成バブルまで続いていたそうです。

 

 <参考資料>

現地の説明板、上下商工会・ロマンの町上下