赤間神宮と壇ノ浦/(長門国)下関市 | 史跡散策

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プロフィール写真は、備後・福山城

 昨秋、福岡からの帰路に下関市(長門国豊浦郡)の関門海峡に面した第82代安徳天皇が祀られる赤間神宮に詣でました、15年ぶり二度目です。

最初の写真は、太閤石を前に、赤間神宮の水天門です。

 次は、境内の案内図

   

次の写真③④は、大安殿(外拝殿)

 次の写真は、外拝殿り内側にある内拝殿です。

  

 次の⑥は、拝殿とその奥の神殿(本殿)を見る。

 当日は快晴で、空の青、甍の淡い青、森の緑そして社殿の朱と壁の白がよく調和して美しかった。

 

 次の写真は、拝殿手前の石段下の左右にある一対の左の獅子像ですが、中国の大連の花崗岩を現地で彫り上げて平成7年10月に奉納されたものです。 --- なぜここにと思いましたらーー 明治40年(1907)に大連に創建された大連神社のご神体を敗戦后の昭和22年に日本に持ち帰り、福岡の筥崎宮の仮安置ののち、この赤間神宮の境内に祀っているいることが縁だそうです。

   

  下図は赤間神宮と壇ノ浦の概略位置図です。

 次の写真⑧は、1973年に完成した関門橋を赤間神宮前の海岸から眺めたところで、当時は海流が早く逆行する船は大変のようでした。

 下図は、関門橋(高速道路)の概要と壇ノ浦での主な戦いのメモです。

 次の写真⑨は、源平合戦の古戦場跡にある安徳天皇縁起絵図

 このすぐ近くに御裳川(みもすそかわ)のあった場所に、二位の尼(平時子、平清盛妻、安徳天皇祖母)の辞世碑がありました。

    "  今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ

           波の下にも  みやこありとは " 

 次の写真は、左が源氏の大将・源義経、右が平氏の大将・平知盛の

像が壇ノ浦古戦場を望む海岸にありました。

 この壇ノ浦公園で、当地の観光協会でボランティア活動で歴史紙芝居

されているご婦人にお会いしていろいろとお話を伺いました。

自転車の紙芝居は、もう60年前の記憶がよみがえり懐かしく感じました。

 

 次の写真⑫は、元治元年(1864)5月に英仏蘭米の四カ国と長州毛利藩がここ関門海峡で戦った「下関戦争」の時の毛利藩の80斤カノン砲の青銅製のレプリカ5門です。

 この下関戦争では、四カ国連合の軍艦17隻に攻撃され、長州藩の壇ノ浦砲台、御裳川砲台をはじめ14ケ所の砲台は、ことごとく破壊された、 

 長州藩はこの大敗の経験から攘夷から開国に舵をきり明治維新に繋がっていき、源平合戦のでは、壇ノ浦の戦いの後、武家政権(鎌倉幕府)が誕生しており、武家政権の初めと終わりを感じさせる海峡でした。

 

<ご参考>

①寿永4年(1185)3月24日、源平の壇ノ浦の戦いで第82代安徳天皇と祖母の二位の尼は共に入水される。

②建久2年(1191)に貞観2年(859)開山の赤間関の阿弥陀寺に朝廷は御影堂を建立し安徳天皇のご冥福を祈らせる。

 

③明治政府は、御影堂を改め天皇社とし、明治8年官幣中社とし社号を赤間宮と定める。

④昭和15年8月1日官幣大社、赤間神宮の宣下を給う。

  第二次世界大戦で全て焼失したが昭和40年4月に再建される。

 社殿は、昔日に倍して「陸の龍宮」と云われる。

 

⑤水天門前の大岩「太閤石」のいわれ

  豊臣秀吉が大阪城を築城した時、諸大名が大石を大坂に運んだが、九州肥前の大名・龍造寺隆信も領国から運んでいたが、この壇ノ浦の急流に阻まれて、大阪城落成に間に合わなかった。

 そこで大石をこの海峡に沈めたという、時は流れて、昭和の赤間神宮の再建の時、この大石を海底から引き揚げて現在の石垣に利用したと云う。

 

<参考資料>

 赤間神宮発行の由緒、現地説明板、地元の方のお話

 三笠書房・地図で読む幕末・維新