福山八幡宮/備後福山総鎮守 | 史跡散策

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プロフィール写真は、備後・福山城

 新年おめでとうございます

地元の備後福山総鎮守・福山八幡宮に初詣しました。

 この神社は、東の宮と西の宮の二つの八幡宮からなり両社八幡とも云われて社殿は同一様式、同じ規模、祭神も同じで全国でも珍しい形式の神社です。

 下図は、神社のと撮影位置でJR福山駅の北500m、福山城のすぐ後ろにあります、図は神社境内面積を大きくしていますが実際は福山城跡公園の面積の1/3程度です。

 次の写真①は、手前が御手洗川で東の宮の門、奥に見えるのは手水舎です。 

次の写真は、両部鳥居の朱漆塗りの木造の鳥居で全国で三番目に古いそうで、社号額は17世紀後半の左大臣・近衛基煕公の筆による。

鳥居をすぎて石段を登ると隋神門(写真③)、次いで東の宮の拝殿(写真④)の前に出る。

次の写真⑤は、東の宮の拝殿前から昭和59年、鎮座300年を記念して新築された中央拝殿で東の宮と西の宮の拝殿の中間にある。

 その中央拝殿を正面からーー写真⑥

 写真⑦は中央拝殿から西の宮の拝殿と本殿、⑧は平成21年に屋根の葺き替えがなされた本殿です。

 

 次の写真⑨は、西の宮の本殿の左側の奥にある福山藩初代藩主の水野勝成公を祀る聰敏神社です。

 西の宮の隋神門の石段を下ると西の宮の鳥居(写真⑩)、さらに西の宮の門(写真⑪)に至ります。

冒頭に記しました通り、東の宮の写真①と②と全く同一になっています。

 

 写真⑫は、福山城天守閣を東側より、⑬は南側の正面から見た処です。

ここは、水野勝成公が大和郡山6萬石から備後福山10萬石の大名として元和5年(1619)に入部して福山城を創建(元和6~8年)する以前は常興寺山があり、その中腹に東の宮(惣堂八幡社)と西の宮(若宮八幡社)があったそうです。   (なお、現天守閣は昭和41年の復元)

 :現在、福山城築城400年記念で天守閣の建替えが計画されている。

 

 

 <ご参考>

①ご祭神は両社とも、応神天皇、比売大神、神功皇后

惣堂八幡社(東の宮)は、承保年中(1074ごろ)宇佐神宮より、若宮

  八幡社(西の宮)は永享年中(1429ごろ)鶴岡八幡宮より勧請

3戦国時代~江戸初期は、地元の武将の杉原播磨守や毛利輝元、

 福島正則などに崇敬されていた。

 

④両社は、福山城築城の時、一旦城下の延広小路と野上口に移設

  されたが、四代水野勝種公の天和3年(1683)福山10萬石の守護神

  として両社を現在地に福山八幡宮として造営し、備後福山総鎮守

  とした。 

⑤江戸時代は、東の宮は町民、西の宮は武士と野上村の住民などが

  参詣していたそうです。

⑥現在は、初詣、安全祈願祭、七五三詣など諸祈願は中央拝殿で

  執り行われている。

 

<参考資料>

 福山八幡宮御由緒略記、 村上正名著・福山の史蹟めぐり