出雲国の最強の国人と云われた出雲国仁多郡(島根県奥出雲町)にある三沢氏の居城三沢城跡を訪れました。
写真①は、三沢城の南山麓(標高約300m)地点から三沢城跡(中央奥の山標高418m)を見たところです。
信州伊那郡飯島郷の飯島為光が承久3年(1221)の承久の乱の戦功により出雲国三沢(みざわ)荘を与えられ、その後、乾元1年(1302)飯島為中(飯島氏5代、三沢氏初代)が三沢荘に来住して嘉元3年に鴨倉山(418m)に要害山三沢城を築城して姓を三沢(みざわ)と改めた。
写真②は、三沢城跡の登山口にある説明板
下図は、三沢城跡の位置の概略位置図です。
JR山陰本線の宍道駅から南へ25km,JR木次線の出雲三成駅の西5km、そして戦国時代の山陰地方の雄・尼子氏の本城・月山富田城の南西30kmの地点にあります。
写真③、登山口からすぐの所に黄連(おうれん)の群生地の説明板があります、それによると大同3年(808)の本邦初の医薬書「大同類聚方」に出雲仁多郡「美佐波(みさわ)薬」として黄連を調合した漢方薬(風邪薬)が紹介されているそうです。
少し進むと大手門の石垣が見えてきます。 写真④
大手門石垣を登ると左手に二の丸跡(標高約350m)があります。
今は杉林になっているがかなりの広さです。 写真⑤
この二の丸跡から横に200mの所に霊泉・三沢池があり、出雲風土記に大国主命の子の阿知須枳高日子根命(あじすきたかひこね)が幼少の時、言語障害を治されたと云われ、また、後には新任の出雲国造が天皇に
「神賀詞(かむよごと)」を奏上するため出発前にこの水で禊をしたと伝わっている、今も湧き出しており一杯ご馳走になりました。 写真⑥
二の丸跡に戻って約70m登ると本丸濠(堀切)に至る。 写真⑦
本丸濠から左へ約10m登ると本郭跡に出る。 写真⑧
本郭跡は、かなり広く中央には小屋があり、中には初代飯島為光から三沢初代為仲、三沢城最後の12代為虎、そして長門長府藩毛利氏の上席家老となった12代為虎から明治維新までの歴代当主の系図や城の概要などが掲示されていた。 写真⑨
三沢城跡碑の横には、この下に三沢氏の財宝が埋められたという亀岩がある。 写真⑩
次の写真⑪は、三沢城の副槨と云われる鳥居丸の中に、標高約410mの所に古井戸がある、更に古井戸のすぐ上には信濃国出身の三沢氏らしく諏訪大社を分祀したという諏訪社跡があった。
写真⑫、その副槨の鳥居丸から西にある本郭を見る。
次の写真⑬は、本郭跡から北の方向を見た処で、空気が澄んでいる時は奥の山の向こうに日本海(約30km先)が見えるそうです。
三沢氏は、一時は守護職と抵抗するなど出雲最強の国人と云われるだけあって、城跡も合計30余の大小曲輪からなっている。
現在も地元の方の努力で良く整備されていた。
当日も山林組合の方が本郭跡周囲の雑木草の伐採作業をされていた。
今回は、往復260kmのドライブと約90分の散策でした。
<ご参考>
1)嘉元3年(1305)に飯島為長(仲)が 信濃伊那郡飯島より三沢郷に来住
して三沢氏を名乗り三沢城を築城する。
2)1391年の明徳の乱には3代当主の三沢為忠が出雲守護の山名満に
従い出陣するが討死する。
3)室町時代後期には三沢氏は、出雲守護の京極氏に従い出雲国の有力
な国人に成長する。
4)戦国期に入ると京極氏に代わった尼子氏とは敵対するが1488年には
尼子経久と戦うも敗れ、9代三沢為国は尼子氏の傘下に入る。
その後は、三沢氏は尼子十旗の一人として月山富田城を支える有力な
国人となる。
5)10代当主・三沢為幸は1540年尼子氏の安芸吉田郡山の毛利攻めに参
陣するが討死する。
6)11代三沢為清は大内氏、尼子氏と従ったが最後は毛利元就に従う。
7)三沢為清の没後、第12代三沢為虎は毛利輝元に謀られ幽閉の身となる
( 毛利輝元は旧・尼子家臣を信用していなかった?! )
その後解放されて長州厚狭郡古帳で10,000石を給され、豊臣秀吉の
小田原征伐や文禄・慶長の役に毛利傘下として出陣している。
8)関ヶ原合戦後、三沢為虎は長府毛利藩5万石の上席家老(2,700石)
として明治維新を迎えている。
為虎の息子の一人三沢為基は仙台伊達藩に仕え、孫娘の三沢初子
は伊達3代当主・伊達綱宗の側室となり4代当主・伊達綱村、宇和島
10萬石の養子となった伊達宗贇、分家3萬石の村和の母である。
(正妻に男子がいなかった)
仙台藩では、三沢氏は重臣扱いとなる。
<参考資料>
奥出雲町発行・要害山三沢城跡、現地の説明板
中村整史郎・尼子経久、 Wikipedia・三沢氏
山麓の登山口にある要害山交流拠点「みざわ館」の方のお話