備後の山城、芦田郡/朝山二子城 | 史跡散策

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プロフィール写真は、備後・福山城

   備後国の山城跡訪問シリーズです。

 

 広島県府中市(備後国芦田郡)から国道486号を西進すると芦田川と御調川の合流点の父石(ちいし)に至るが、ここから芦田川左岸にある県道24号

に沿って上下町へむかって約7km進と落合という集落に達する。

 写真①、落合付近の芦田川でここに至るまで左岸は県道、右岸はJR福塩線が通っているが両岸には山が急に迫っている。

     下図は、これから向かう府中市久佐町(備後国芦田郡久佐村)の

    朝山二子城付近のイメージ位置図です。

 県道24号の落合から芦田川と共に左折し約1km進むと久佐町に入る。

ここで駐車し朝山二子城跡に登るが、山麓に城主・楢崎氏の菩提寺の曹洞宗伽葉山安全寺があり訪れた。 写真②

 写真③、境内の楢崎氏の墓碑

 折よく寺の住職さんの話が聞けました。

この寺は元々ここから800m西にあった楢崎氏の菩提寺・竹馬寺が過去3回火災に遭い、昭和初期に現在地に再建されたとのことで、竹馬寺跡に

楢崎氏および家臣の墓石群(五輪塔40基、宝篋印塔2基)が現存している

そうです。

写真④、芦田川左岸の山麓からみる朝山二子城跡(標高270m、比高差120m)、山頂の木がこんもりしている所が主郭跡。

 今から主郭跡を目指しますが、先の住職さんから「寺の境内にも現れるので猪と鹿に注意して」と云われました。

  

 写真⑤、山麓の登り口の杉林

   写真⑥、主郭部北側の堀切跡

  写真⑦、主郭への道

写真⑧、主郭址には「楢崎城跡」の石碑の奥の正面に龍王神社が祀って

あった。朝山二子城は楢崎城とも呼ばれていた。

 写真⑨、主郭周辺は大きな木が茂っており展望が良くないが、かすかな隙間から眼下に久佐町が見える。

 下山すると丁度運よく芦田川鉄橋に向かうJR福塩線の下りのディーゼル車が走行していた。写真⑩-- 昼間運行頻度 2本/日

 この芦田川の3km上流に福山地方の水瓶「6000万トンの八田原ダム」

がある。 

 

 次に朝山二子城の対岸にある初代城主の楢崎加賀守豊武が1333年に

再建したと伝わる久佐八幡神社を訪れました。 

ここは、石落山(280m)の中腹にあり次の写真⑪の石段に至るまでの参道は、石落の名の如く石が落ちるような急勾配のジグザグ道だった。

 写真⑫、久佐八幡神社境内から正面に朝山二子城跡を見る。

 今回の散策は、約1.5時間でした、梅雨明け直後で山麓部は大変暑かったが山頂や神社境内は大きな樹木で囲まれ風もあり快適だった。

 

 <ご参考>

1、1333年大和国宇多郡の宇多加賀守豊武が足利尊氏から芦田郡地頭

  職を拝領し久佐村楢崎山に住し楢崎を称し朝山二子城築城す。

2、下って戦国後期に、楢崎三河守豊景、嫡子筑後守信景は備後国神辺 

  城主の杉原盛重の麾下にあった。 

3、永禄12年(1569)6月、杉原盛重は毛利元就に従い筑前立花城攻めに

  参軍していた。 嫡子・楢崎信景も従っていた。

 

4、この時山陰の尼子晴久・山中鹿之助の蜂起に合わせて、備中の武将・

  藤井皓玄が神辺城を急襲する。

  留守居の家老・所原肥前守は城主息の杉原元盛、景盛を守り約30騎

  で応戦するも城を脱して久佐村の楢崎三河守豊景を頼る。

5、同年8月、所原肥前守体は体制を立て直して神辺城奪還を興す。

  この時、楢崎三河守豊景は末子の三郎を伴い活躍する。

   特に、三郎は剛の者と云われた藤井皓玄の嫡男・広吉を討取る大功

  を立てるが直後、藤井皓玄が放った鉄砲で落命している。 

 

6、毛利元就は「豊景は老身にして軍功比類なし」と称賛した。         

7、楢崎氏はその後も「備中高松城合戦、小田原征伐、朝鮮慶長の役、

  関ヶ原合戦」など主に小早川氏の麾下として活躍する。

  関ヶ原合戦の後は毛利氏に従い防長に移る。

8、楢崎氏の所領は1000石ぐらいだったか??

 

 <.参考資料>

 立石定夫著、神辺城と藤井皓玄

 森本 繁著、備後の歴史散歩(上)

 安全寺住職のお話