糸島市の平原遺跡の後、高祖神社、細石神社や伊都国歴史博物館etc
を訪れました。(2度目です)
写真①は高祖神社(たかす)の拝殿です。
① 拝殿
図1は、今回訪れた神社などの位置図です。
図1
1)高祖神社
糸島市(旧・怡土郡)と福岡市(旧・早良郡)の市境にある高祖山416mの
山麓にあり、主祭神は彦火火出見命(神武天皇)左座に玉依姫(神武母)
右座に息長タラシ姫命(神功皇后)を祀る高祖神社がある。
写真②は参道、③は元禄6年(1693)4代福岡藩主、黒田綱政が寄進
した鳥居、④は拝殿側からみた同鳥居、楠木が時代を感じさせる。
② 参道
③ 鳥居正面
④ 鳥居と楠木
⑤は、拝殿と本殿を北側から見たところ、本社は古くは高礒比売神
(高祖神?)を祀ったと記録されている、社は建久8年(1197)大蔵氏の
一族の原田種直が怡土地方の領主になり孫の時代に高祖山城を築城
した時に山頂部より当地に移したと伝わっている。
⑤ 拝殿と本殿
なお、高祖山の近くにはクシフル山や日向の地名、AD200年前後の
王墓の発見などから「古事記」に云う、五瀬命と若御毛沼命(神武)が
東征を語らった「高千穂の宮」とはここと云われる人もおられる。
2)細石神社(さざれいし)
古代の伊都国のほぼ中心部と思われる位置の三雲・井原地区に
ニニギノミコト(天照大神の孫)の妻の大山祇命の娘の木之花開耶姫と
その姉、磐長姫を祀る細石神社がある。 写真⑥
⑥ 細石神社
3)三雲南小路遺跡
細石神社から西200m、高祖神社から西1,300m、平原遺跡から東へ
約1,000mの地点に弥生中期後半の王墓と云われる三雲南小路遺跡が
あり、 今は埋め戻してある写真⑦
⑦ 三雲南小路遺跡
1号墳丘墓は1822年、二号丘墳は1974年に発見され、何れも詳細な
記録が残されている。
1号墳丘墓は2000年の調査で一辺33mの周溝をもった方形墳丘墓で
甕棺墓であることが判っている。
副葬品は、前漢鏡35面、銅矛2本、銅戈戈1本、ガラス壁8点、
ガラス勾玉3点、ガラス管玉100点、金銅4葉座金具8点
鏡、勾玉、剣の三種の神器があり古代の伊都国王の一人と推定されいる
「魏志倭人伝」には、伊都国に代々「王」ありと記されている
図4に甕棺のイメージを示します。
図2,3,4
写真⑧は、細石神社方面から高祖山(中央の高い山)、その右の山が
クシシフル峰、写真⑨は怡土郡と早良郡の群境の日向峠から糸島平野
と高祖山(右の高い山)を見た処、今回天気が悪く⑨は以前の写真です。
⑧ 高祖山
⑨ 日向峠より
4)古代の怡土城跡(国の史跡)
写真⑧の高祖山の左斜面に奈良時代 ・天平勝宝8年(756)から768年
にかけて大宰大弐・吉備真備と後任の佐伯今毛人によって築城された
中国式山城(図2参照)の怡土城址がある。
吉備真備は遣唐使のメンバーとして2回入唐しており、その知識を生かし
2.8Km2の面積に及ぶ山の斜面にタスキ状に構築した攻撃性の強い山城
と云われている。--参考、朝鮮式は等高線に展開(図3)
5)中世の高祖城
建長元年(1249)原田種直(平氏の有力武将だった)の孫・原田種継が
高祖山の山頂部に古代の怡土城址を再利用して高祖城を築城した。
原田氏は、鎌倉、室町および戦国時代には怡土郡、志摩郡を中心に
勢力を張っていたが天正15年豊臣秀吉の九州平定後は廃城となった。
今回、怡土、高祖城跡は遠くから眺めただけで次は登ってみたい。
<参考資料>
現地説明案内板
学生社、原田大六著、実在した神話
創英社、萱島伊都男、卑弥呼は福岡付近にいた
伊都国歴史博物館、伊都国の王都を探る