ここ猿掛城は、元暦元年(1184)一ノ谷の戦いにおいて武蔵七党の児玉党惣領家五代当主・庄家長が
平家方大将の一人平重衡を生け捕りした功により鎌倉幕府より備中国小田郡草壁庄を賜り、
元久2年(1205)ごろ築城した。
下図は、猿掛城跡付近図と写真の撮影場所 ①~⑬
写真①は、小田川上流から右岸の山の猿掛城跡を見る、
写真①
写真②は、山麓から見る小田川と猿掛城跡、山頂の台形の所、225m
写真②
写真③は、琴弾岩の横にある猿掛城跡の案内図、本丸から六の丸まで難攻不落のつくりになっている。
写真③案内図
写真④は、猿掛城本丸跡、山麓から約1時間かかりました。
写真④
本丸の裏側は、急斜面で深い堀切になっていた。
写真⑤は、本丸跡から西方面(矢掛町横谷地区)を見る。川の北側が旧山陽道
写真⑤西方面
写真⑥は、本丸跡から東方面(真備町妹地区)を見る
写真⑥
写真⑦は、猿掛城から降りて来ると登り口に門番の狸さんが居た !!
写真⑦ 狸さん
庄氏の領地・草壁庄は、猿掛城の東側の山麓の横谷郷、中郷、里山田郷、南山田郷であって
一番近い横谷御土居に館を構えていた。 写真⑧が庄氏館跡
写真⑧ 館跡
写真⑬
は、庄氏の菩提寺、曹洞宗中本山、洞松寺(1412創建)の山門と本堂、洞松寺は末寺、孫寺
合わせて1278ヶ寺を持つ名刹だったと云われる。
写真⑬菩提寺
なお、庄氏は室町時代には有力国人に成長して備中守護職・細川氏のもとで総社の石川氏と
共に守護代を務め、応仁の乱(1467~1477)では庄元資は備中の手勢を率いて西軍の備後国
山名氏と戦うなど東軍の細川勝元方として戦った。
応仁の乱の後は、下剋上の世となり守護職・細川氏を追い備中の有力者となるが、戦国時代
に入り山陰の尼子氏、備前宇喜多氏、安芸の毛利氏、備中の三村氏などと争うが最終的なは
毛利氏の軍門に降る。庄氏のピークは元資の子の庄為資の時代(1530年ごろ)
なお、猿掛城は、天正10年(1582)の羽柴秀吉の備中高松城水攻めの時、毛利方の総大将
毛利輝元が本陣とした場所である。
高松城と猿掛城は約20Km離れており、やや遠いように思われるが !!
この庄氏の館跡の前に江戸時代の備中広瀬・板倉藩の大庄屋の福武屋敷が現存する。
敷地面積1420坪で白壁の土塀には鉄砲狭間を有する立派な屋敷、写真⑨~⑫
写真⑨は、庄氏館跡から長屋門を見る。
写真⑨
写真⑩長屋門
写真⑪西南より
写真⑫ 西側より
ご参考、 猿掛城略歴
①元暦元年(1184)一ノ谷の戦いの功により、児玉党の当主・庄家長が備中小田郡草壁庄を
賜り1205年ごろ猿掛城を築城した。
②室町時代には、備中の有力国人に成長して、京兆細川家と備中守護細川家の双方に
出仕し備中では守護代に任じられた。
③1492年ごろ庄元資は、地元の領地争いで細川氏の他の被官と争い主家の守護・細川勝久
に猿掛城を追われるが、のち和睦している。 その後細川氏の権力が低下していく。
④天文2年(1533)庄為資は、山陰の尼子氏と結び備中松山城を攻略して本拠を松山城に
移し、猿掛城は一族の穂井田実近へ譲る。
⑤天文22(1551)毛利氏と三村家親が猿掛城を攻める、激戦の後、三村家親の子・元佑が
穂井田実近の養子となり猿掛城主となる。
⑥天正2(1574)毛利氏と宇喜多直家が猿掛城を落城させ毛利元清(毛利元就の子)が
城主となり穂井田元清と名乗る。
⑦天正10(1582)羽柴秀吉との高松城水攻の時は、毛利方の総大将・毛利輝元がこの猿掛城
に本陣を置いた。
⑧慶長6(1600)関ケ原の戦い後、毛利氏が防長2ケ国へ削封され、一国一城令によって
猿掛城は廃城となった。
資料、現地説明板、岡山県の歴史散歩/山川出版社
Wikipedia 武蔵七党、 庄氏