史跡散策

史跡散策

古代からの歴史や史跡散策が趣味です。
プロフィール写真は、備後・福山城

 唐津の菜畑遺跡に次ぐ水稲耕作遺跡で縄文晩期から弥生時代

後期の複合遺跡、又国内初期の環濠集落でもある板付遺跡

を訪れました。(7年ぶり2回目の訪問です)

  最初の写真は板付遺跡公園内にある板付遺跡弥生館です。

 

 次図は、板付遺跡周辺付近図で、JR博多駅の南約4kmB地点で

奴国跡と云われる春日市の須玖岡本遺跡とは約3kmの距離になる、

 福岡国際空港(旧板付飛行場)は東側直近にある。

 御笠川と諸岡川に挟まれた、標高約12mの低い台地上にある。

 

 次の写真2葉は、南北110m東西80の卵型環濠集落に復元された

竪穴住居6棟で1棟当り数名が住んでいて、この集落の住居時期は

奴国成立以前の「ムラ」の時代と推定されている。

 

 

 次の写真は、環濠の濠を復元されたもので、上面の巾6m深さ3m

 のV字型の濠が集落の周囲を巡らせていた。

  次の写真は、環濠西側の外部に発見された水田跡で、東側にも

 水田跡が確認されて、宝満山(御笠山)を水源とする御笠川より

 導水した井堰や水路も発見されている。

  西側の水田跡からは弥生人の足跡が残っていた!!

 

  次の写真、板付遺跡弥生館に1/100の集落模型が展示してある。 

 

 次の写真、館内展示してある板付式土器類です。

 

 <ご参考>

1916年中山平次郎氏が甕棺内より青銅製の矛、剣の出土を学会

  に報告された。

②1950年には中原氏が縄文土器とされていた、縄文晩期の

   夜臼式土器と板付1式土器を採取される。

 この後、中原氏、九大岡崎氏、明大杉原氏らにより4年間発掘

 調査が行われ、石包丁、磨製石器、炭化灰、籾圧痕の土器が

 出土し稲作農耕の存在が確認された。

1970年団地建設工事に伴い、福岡市教育委員会の発掘調査

を経て1976年国の史蹟に指定された。

1978年には、弥生時代の1層下から縄文晩期の土層から

  大区画の水田跡、木製農機具、石包丁、用水路が確認され

 板付1式土器の時期より古い遺跡である事が確認された。

  水田の1区画は、400m2と推定されている。 

⑤ 私が中学生の頃の記憶に残っている当時の報道は

  「日本最古の水田跡発見」だったようです

 

 古代奴国跡と云われている春日市岡本の須玖岡本遺跡

を訪れました。 ( 10年ぶり2度目の訪問です。)

  

 下図のA地点が須玖岡本遺跡の場所です。

 福岡中心の西鉄大牟田線のターミナル駅・天神から同線の

雑餉隈駅まで8km、そこより西1.5kmの地点です。

 日本最古級水田跡の板付遺跡 B地点まで約3kmです。

 

 この須玖岡本遺跡群は福岡平野に突き出た春日丘陵の

低台地にあり南北2km東西1kmの範囲に弥生時代中期~

後期の大規模遺跡群で須玖岡本遺跡は遺跡群北端にある。

福岡平野中央を流れる那珂川は、西約2kmを流れている。

 

 1979~1980年の調査で116基以上の甕棺墓のほか

合計300基の墓壙が発見されている。

 その中で1899年、その土地所有者が家屋新築の時に巨石

を動かしたときに合口甕棺を発見した。

 次の写真は、その甕棺の上にあった巨石で、現在は、

最初の写真の遺跡石碑の直ぐ後方に展示してある。

   長さ3.6m、巾2m、厚さ30cmの大きさです。

 発見場所は、この地点から西200mのところです。

 

 この巨石の下の甕棺墓から出土した副葬品は

  銅剣2、銅矛4、銅戈1、前漢鏡32個以上、ガラス璧、

 ガラス勾玉、ガラス管玉なと゛多数で武器類が多い事から

「男王墓」と推定され、福岡県糸島市の「三雲南小路遺跡」

 と同時代の王墓と推定されている。

  次の写真は、1998年に開館された春日市営の

   「奴国の丘歴史資料館」です。 

 

 この須玖岡本遺跡群からは、青銅器工房跡、ガラス工房跡、

 などが複数個所が発見されている。

  歴史資料館に入るとすぐ次の実物大の人形の青銅工房

 の作業風景の模型が目に入る。

 

 次の写真は、須玖岡本遺跡の覆屋の外観 

 次の写真は、覆屋の内部の甕棺遺構

 

 次の写真は、覆屋の西にある住居跡

 

 次の写真は、資料館展示の中広銅矛

 

 次の写真は青銅器の複製品、新品の時はこのような輝き!!

 

  次の写真は、同じく甕棺及び土器の展示品

 

 

<参考資料.> 
 奴国の丘資料館の説明資料など
 

 

 

 コロナ感染で5年ぶりの福岡です。

福岡出身で伯父が天神町に住んでいましたので天神には頻繁

に訪れていましたが、子供のころは警固神社には数回参拝した

程度で、今回改めて参拝しました。

 地下鉄天神駅より新天町から警固神社まで歩きましたが、岩田屋

は移転し西鉄のターミナルは三越に変わっているし、神社は高層

ビルに囲まれた谷間にあるなど、その様変わりに驚きました。

 最初の写真3葉は、鳥居から神門まで。

 

 

  

 次の写真は、拝殿側より見た神門です。 

 

  次の写真は、拝殿

 

 次の写真は、拝殿左から見た本殿、奥は三越のビル

   主祭神は、警固大神(神直毘神、大直毘神、八十禍津日神)

       相殿は、建角身神、豊玉姫命、神功皇后、応神天皇 

 

 次の写真は、境内の石灯籠で本殿周り16基、全部で33基ある。 

 

 <ご参考>

①警固大神は古事記によると伊邪那岐命が筑紫の橘の小戸の

 阿波岐原で禊祓いをした時に、天照大神、素戔嗚命、月読命、

 綿津見3神、住吉3神などに先立って誕生された神様です。

②警固大神を祭神とする神社は珍しい!!

③警固神社の由来

  神功皇后が三韓征伐の時に皇后の船団を守護し勝利に導か

  れたので、凱旋後に博多湾を見下ろす福崎(旧福岡城)に

  警固大神を祀られた事に始まる。

④関ヶ原の戦いの功により、筑前太守となった、黒田長政侯が

  福岡城を築城した時に、現在の天神(旧警固村)に遷座し

  から警固神社と称するようになった。

⑤警固の地名は、古代筑紫の鴻臚館の役所の警固所に由来する。

⑥当日は、平日の早朝でしたが、出勤前の若い男女、そして

  近所にお住まいの婦人など多く参拝されていて驚きました。

⑦警固神社境内よく整備されて、神社は結婚式場、貸会場を

  運営されていて様変わりを感じました。