< 茶人みずからが削りはじめる>

 利休は草庵の茶を確立し、地歩を固め、やがて天下人の宗匠へとのぼりつめていく。細川三齋、古田織部、高山右近、蒲生氏郷、織田有楽斎など弟子となった大名茶人がきら星の如く現れ、茶の湯の地位を著しく向上させている。この頃には庶民にも広く茶の湯が浸透しており、豪商や芸術家などの茶人もあらわれる。

 商人や庶民では大名などには近づくこともできないが、茶の湯を通してなら同席も可能である。同席した茶人がつくった、あるいは使用した茶杓となれば親近感もわき、また著名な茶人となればその名声から茶杓の価値もあがっていく。その最たる例が茶杓「泪」であろう。利休生涯の形見に弟子の古田織部が受領したもので、後に絽色漆を塗り、窓を開けた追い筒を誂えたことはあまりにも有名である。四角の小窓から内の茶杓が覗き、それを朝夕に拝む姿はまるで位牌に対するもののようでもある。こうしたことを見るにおいて、茶杓すなわち茶人といえるまで格があがっていったことがわかるのである。

 このように茶人の地位が向上し、茶人自らが削ることが主流になっていくことで、それまで存在していた下削り師たちの影が薄くなっていくことはやむを得ないことである。注目したいのは、これまでの茶杓は無定型で、自由であり、珠光の節なし、紹鷗の節止・元節などさまざまであった。それを利休以来、茶杓といえば中節というように定型化し、茶匙から茶杓へと呼称も変化する。中国風の茶匙より、茶杓と呼んだほうがなんとなく日本風でふさわしいということもあったであろう。ここにきて草庵茶のための道具である茶杓がほぼ完成したのである。

 こうして人格が茶杓に投影されるいう思想が広まるにつれ、より茶杓が尊重され、結果、保存や作者を極めるための筒や箱が必要となっていったことはいうまでもない。