< 個性化する茶杓>

 

 利休が没すると、茶の湯はその直系や門人たちによって発展的に拡散していく。利休直系は少庵から三代宗旦を経て、庶民の茶として草庵茶をさらに簡素化し、侘茶として一派をなしていく。一方、門人である古田織部、さらに門下である小堀遠州、道安から発した金森宗和、片桐石州などの諸大名グループは、庶民茶に対して大名茶を提唱する。利休が没し、利休という重しがはずれることで、町人と武士との身分的な志向が表面化し、分枝していくのである。そして禅の影響から精神性や修養性を多分に含んだ茶の湯は、この時期から文化・芸術の要素もまとい、茶杓の姿形も俄然面白みを増してくるのである。

 彼らはそれぞれの流儀の門戸をひらき、その特色を発揮するように、茶杓にでもそれぞれの趣味嗜好にかなうように創作した。まさに百花繚乱のごとく多彩な茶杓が登場するのである。

 茶杓に銘がつけられるようになるのもこの時代からで、銘によってさらに茶杓が美化され、優雅化されていく。いよいよ茶杓は趣味や個性の時代へと移っていくのである。

 この時代も大名を筆頭に僧侶や芸術家など多彩な人々が茶の湯を彩っている。その初期では琳派の源流と云える本阿弥光悦を中心とする芸術隆盛の時代で、ほかにも松花堂昭乗、佐川田昌俊、淀屋介庵、沢庵宗彭、江月宗玩が登場する。大名では茶杓にも多大な影響を与えた小堀遠州、片桐石州の二宗匠が将軍家茶道=武家茶道の本流をなし、これと対比するように利休の侘茶が庶民化の度合いを深めていく。

 祖父利休自刃の反省から孫の宗旦は、権力と関わることを極力避け、市井の侘茶に徹しながら庶民的な茶を極めていく。この変化はとうぜんのことながら茶杓にも顕れる。利休の鋭さ、きびしさをほどよく取り入れ、いわゆる侘び杓を案出する。下削り職にまかせず、みずから削っているところに宗旦の徹底ぶりがみられる。みずから削ったために多少の稚拙さが残り、逆にそれが効果的に演出され、閑寂さをまとい、侘びた作ぶりとなっている。そして、宗旦の茶杓で著しい特徴は拭き漆をしないことである。木地そのものの持ち味を生かすことで、いちだんと侘びた風趣が創出されたのである。

 一方、宗旦の侘茶に対したのが小堀遠州である。茶杓においても宗旦のそれとはことなり、吟味し尽くした素材の美しさに造詣として美術的、工芸的な要素が多大に加味されている。宗旦が下削り職を抱えずあくまでも自作にこだわったのに対し、遠州は下削り職をうまく使っている。ただし実作業は職人にまかせるが、意匠はみずからが創案し、素材も美しい竹を厳選している。また銘おいても歌銘など趣のあるものを好み、書付も定家様でその美しさを際だたせている。

 この頃から茶の湯が興隆の時代を迎え、茶杓削りも流行し、多くの茶人たちが自作と思われる茶杓を残している。

 以上、村田珠光の時代から宗旦、遠州あたりまでの歴史を簡単に述べた。以降も片桐石州や金森宗和、松平不昧などといった個性ある茶人が登場し、それぞれに特徴的な茶杓を創作しているが、時代的な茶杓の変遷という意味においては語るところが少ないように思える。もちろん、現代に続くまで茶杓は多くの茶人が削り、個々人で観ていくと非常に興味深い。現在出版されている書籍に紹介されているので、それを一読いただきたい。

 はじめの頃は専門の職方が制作し、折ためといって一会限りの使用で、終われば捨てられていた雑器。

やがて日本人のもつ美風が先人敬慕を生じさせ、墨蹟などと同様に尊重されたのである。

 このように茶杓は、義政の時代から約五百年近い歴史を有しており、茶の湯と共にその歴史を形づくってきた。茶道具のなかでもその長さや深さは他のものと比べてもまったく遜色がない。

  以上が近代以前の茶杓の歴史となる。茶の湯の興隆とともに、その時代性を背景に変遷してきた茶杓。歴史を振り返ってみるだけでも、茶杓のもつ魅力が放出されているのがわかる。