第一次南極観測隊 | 昼下がりのビンカミノール

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新コロナ禍で自粛生活のつれづれに、思いつくままブログに書いています。
友人たちも時々投稿して楽しんでくれています。
観点が異なるので、多重人格と思われるかもしれませんが、
大丈夫です。
安心してください。

 

 俺は河原の 枯れすすき

 おなじお前も 枯れすすき

 どうせ二人は この世では

 花の咲かない 枯れすすき

 

 野口雨情の船頭小唄ですが、どういう訳か父が生前好んで歌っており、子供心に深い意味も分からずその哀調あふれる調べが好きで口ずさんでいました。

 最近、息子も時々口ずさむとお嫁さんから聞きましたが、ひょっとして孫も口ずさむようになるかもしれないと、密かに心配(楽しみに)しています。

 

 森繁久彌の哀感こもる歌い方で聞かれた方もおられるでしょう。

 

 この歌をアコーディオンを弾きながら終戦直後東大の研究室で歌っていたのが地球物理学者の永田武だそうです。

 後に第一次南極観測隊の隊長を務めました。

 この時、副隊長を務めたのが登山家の西堀栄三郎です。

 この時の観測隊の隊員には、彼の名を慕って応募した若手登山家が多いです。

 

 NHKBSのプロジェクトX(再放送)でこの第一次南極観測隊の成立から南極への旅立ちの苦闘を放送していました。

 昭和31年(1956年)ということで、終戦後ようやく復興を始めたころで、世界の中でも日本は全くその存在を認められていなかった時代です。

 欧米十か国が南極観測の共同プロジェクトを立ち上げた中に、日本が入って行った訳で、経済的にも技術的にも欧米諸国に大きく劣っていた中での参加であったので、”どうして日本がこの中にいるのだ?”とか”日本は本当に観測隊を出せるのか?”と非難や揶揄された中でのプロジェクト参加であったようです。

 

 

 

 その中での壮挙に国民がこぞって期待し、千社に余る企業が無償での物的支援を行ったようです。

 特に子供たちがなけなしのお小遣いを寄付するなど、皆がこのプロジェクトに夢を託した様子が描かれています。

 

 戦時中何とか生き残った輸送船”宗谷”を、その運の強さにかけて南極観測船として蘇らすくだりなど、物資のない時代の苦労と欧米なにするものぞとの技術者の意地が偲ばれます。

 

 今日に比べ貧乏で物のない時代でありましたが、何かに命を懸けることが出来たそういう時代でもあったようです。

 終戦後の枯れすすきのようなすさんだ生活の中で、もう一度花を咲かせよう、世界に伍して生きていこうという気概が生まれていた時代でもあったように思います。

 

 27日夜九時からNHKBSで後編を放映するので、ご興味のある方は是非見てください。