三度目の緊急事態宣言が延長され、長い自粛生活が続いています。
大阪梅田に出ることもなくなり、山に登ることも自粛気味。
ルクアイーレの蔦屋で本を買って、行きつけの”なにわ翁”で、お銚子一本の昼酒を楽しみ〆は故郷のおろし蕎麦。
そんなささやかな日常が遠ざかってからもう一年半が過ぎようとしています。
「人は未来は変えられると思っている。そして変えられるのは未来だけだと思っているが、実際は未来は常に過去を変えている。変えられるともいうし、変わってしまうともいう。」
という言葉をある本で読んだことがあります。
その本の中では、子供のころ遊んだテーブル状の石が、その後の不幸な経験でそれまでとは異なった意味を持つようになってしまったようです。
「花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、もうおなじ蕾じゃない」という風にも形容していました。
ひとつの過去の事実が、その後の経験や努力で良い想い出にも嫌な思い出にもなってしまう、時には異なる意味を持ってしまうということだったように思います。
私も小さい時の思い出のある場所に大人になって足を運んだら、それまでのきらびやかな思い出とは異なり、小さなさびれた場所だったという経験をしたことがあります。
この場合は未来によって変わったというよりも、過去の事実が年月を経るごとにどんどん書き換えられたということかもしれません。
人の記憶はあいまいで、年月を経ることで新しいページを繰るように美化され純化されて行くこともあるでしょうし、先に書いたようにその後の経験によって良いようにも、悪しきようにも変わっていくのでしょう。
過去の事実を思い出し評価するのは未来の自分だから、それまでどのように生きてきたかが問われるのでしょうか。
今回のコロナ騒ぎは、十年後どのように思い出されるのでしょうか。
この世界的な不幸を皆の知恵と努力で乗り越え、その後のより良い社会に向けた変革のターニングポイントになったと、後々思い出すことが出来るようになると良いのですが。