お土産やさんも充実しております
あ、あと
シュムリアップ(カンボジア)、
VISAがいるの!
残存期間は6ヶ月以上あるパスポートと、顔写真と、申請に必要な30USドルを用意しておいてね
ネットでもできるらしいけど、空港のビザカウンターでやってもすぐにできました
ちなみに空港内には証明写真を撮る機械はありません
写真なしでも追加料金払えば審査は通るという噂だけどね
たぶんね、ここのビザ申請とっても緩いの
だってVISA収入は国家予算の2%超なんだって
だから審査云々ではなく、収入としてのVISA。
審査に時間もかからないし、パスポートに貼られる記念VISAってことで楽しんでください♪
カンボジアはどこでもUSドルが使えるので、ドルを持っていくこと忘れずに!
さて、ここからはカンボジアの悲しい歴史についてこの機会に勉強しようと思います。
●1946年〜インドシナ戦争勃発
フランスの支配から独立するためベトナムの独立同盟軍が戦争を起こす。
それは次第に周辺国のカンボジアやラオスにも飛び火し、ベトナム独立同盟に共鳴する反政府軍がフランスの植民地であったカンボジアを制圧。
●1953年 カンボジア独立
インドシナ戦争終結をきっかけに、カンボジアはベトナム革命軍の占領から解放。
「独立の父」として人気を集めたシアヌークがトップに。
共産主義を嫌うシアヌークは、ポルポトを敵とみなし、1955年に共産主義を弾圧。
●1961年 ベトナム戦争勃発
フランス撤退後、アジアにおける共産主義の布教を恐れたアメリカがベトナムに軍事介入し、南ベトナムを支援。
シアヌークは北ベトナム(共産主義)の勝利を予見し、勢力を増した共産主義がカンボジアの領土を侵すことを恐れ、「カンボジア国内における北ベトナム軍の活動を許す代わりにカンボジアには手を出さない」ことを条件に、北ベトナムと秘密協定を結ぶ。
共産主義の北ベトナムと秘密協定を結んだことが国民から批判され、人気をなくすシアヌーク。
一方で北ベトナムを支援する中国は共産主義を支持するポルポトに目をつけ支援。
●1970年 シアヌーク失脚
アメリカの後ろ盾を受けたロン・ノルがクーデターを起こす。
しかし、ロン・ノル首相は政治的才覚がなく、反政府ゲリラの動きが活発に。
●1973年 シアヌークがポルポト側につく
追放されていたシアヌークは敵対していたポルポト側に加入。
そしてシアヌークを支持していた多くの農民も反政府活動に参加。
アメリカがベトナム戦争に敗れ、後ろ盾がなくなったロン・ノル政権が崩壊。
そして新しく立ち上がった政権がポルポト率いる
「クメール・ルージュ」
●1975年 クメールルージュがプノンペンへ侵攻
1975年4月17日、当時のトップであったポルポト率いる軍隊「クメール・ルージュ」がプノンペン入り。
当時プノンペンに住んでいた人々は、全員プノンペンから強制退去を命じられ、人々は休みも食事もロクに与えられず、田舎で働かされました。
そしてある日「国の再興を手伝って欲しい」という名目で、医者や教師、学生だった知識人が呼び寄せられました。
長い農作業から解放されると喜んでいた彼らに待っていたのは長期間に及ぶ拷問と処刑。
多くの人々が「国家反逆罪」という無実の罪を自白させられ処刑されたのです。
ポルポトが掲げた
「原始共産主義社会」とは、簡単に言うと、
「全員、農民になって原始時代に戻ろう」ということです。
そこで、
勢力になり得る知識人を容赦無く虐殺していったのでした。 当時はメガネを掛けていただけで、知識人だと見なされ殺されました。
その跡地がトゥールスレンやキリングフィールドです。
●1977年 クメールルージュがベトナム軍を攻撃
軍事力では圧倒的に不利だったポルポトは中国の後ろ盾を信用し、かねてより小競り合いの続いていたベトナムに軍事攻撃。
●1978年 ベトナム軍の侵攻によりクメールルージュ失墜
10万のベトナム軍に対し、3万のクメールルージュはなすすべなく敗れて失墜。
●1997年 ポルポトの末路
ポルポトはカンボジアから逃走し自由の身だったが、1997年拘束され終身刑を言い渡される。
しかし翌年、自宅監禁中心臓発作により謎の死を遂げた
ポルポト政権下たった4年弱の間に、虐殺、疫病、過労、飢餓で200万〜300万人もの死者が出ました。
その数は正確にはわかりません。
なぜなら、正確な記録が残っていないということと、ポルポト政権崩壊で全てが終わったわけではなく、飢餓や疫病はその後も続いたからです。
カンボジア国民の約1/3が失われました。
しかも、医者、教師、僧侶、教育を受けた人々、著名人といった知識人のほとんどを失ったわけです。
そして、残った国民は、クメールルージュにより、全財産を奪われ、家族はバラバラにされ、恋愛結婚も規制され、感情表現の自由も奪われた人々。
このような出来事が起こっていたのがまさに私が生まれた頃。
今回行ったアンコールワットでは、クメールルージュによって仏像の首を刎ねる等の破壊が行われ、政権を失った後は立て篭りの場所とされたそうです。
カンボジア最大の文化遺産を人質にしたわけですね。
その間にさらに内部は破壊されたそうです。
現在のカンボジアの平均年齢は24歳
確かに、それはものすごく感じました。
若い子が多い。というより年配者がいない
ホテルの従業員も、ドライバーも、店員もほとんどが若い子ばかり。
私達観光客を相手に働いている人達はもちろん英語が話せるので教育を受けているのでしょうが、クメールルージュにより教員の8割が亡くなったと言われるカンボジア、子供の教育はもちろんのこと教員の育成もまだまだ間に合っていないのが現状のようです。
日本はカンボジアへの経済支援として1959年からODAで4000億円近くの援助を行なっています。
国道や上水道の整備、地雷除去、そして無償資金協力で作られた2015年開通のカンボジアとベトナムを結ぶ「つばさ橋」は、カンボジアのお札に日本の日の丸と共に描かれています。
今回旅行に行ってその土地に立ち、歴史の一片を肌で感じることができました。
そして改めてこうして歴史を振り返り、考えさせられることが山ほどあって言葉になりませんが、教育の大切さ、先人の知恵を引き継ぎ年配者の話を聞くことが出来ることの有難さを感じています。
暗い過去ばかりクローズアップしては先に進めません。
また是非次の機会を作り、アンコールワットに行って見損ねた沢山の遺跡を楽しみに行きたいと思いまーす♡
参考(というよりほとんどマルっとコピー)
【簡単解説】カンボジアの歴史を時系列でわかりやすく1分で解説する【詳細アリ】