今では考えられないことですが,昭和30年代には市外に電話をかけるのに交換手に申し込んで順番を待たなければなりませんでした。軽井沢まで電話するのに30分も待たされることがざらにありました。それでもこれが一番早い連絡手段だったのです。そんな環境でも当時めざましい経済発展が成し遂げられたのは不思議とも思えます。
(NTTの建物。当時は電報電話局だった)
今では考えられないことですが,昭和30年代には市外に電話をかけるのに交換手に申し込んで順番を待たなければなりませんでした。軽井沢まで電話するのに30分も待たされることがざらにありました。それでもこれが一番早い連絡手段だったのです。そんな環境でも当時めざましい経済発展が成し遂げられたのは不思議とも思えます。
(NTTの建物。当時は電報電話局だった)
小諸市の水道の歴史と私の認識とではちょっと異なるかも知れませんが,先ずは私が思っていた記憶で話します。昭和30年代に日照りが続き,水道がたびたび断水しました。そしてある日,突然にこれまで冷たくおいしかった水道水が,生ぬるい水に変わったのです。臨時で千曲川の水を配水したとのことでした。
小諸市のホームページ内,水道のページに小諸の水道の歴史が書かれていました。それによると,昭和38年,水利権等の理由により,御影用水からの上水への取水が不能になり,東電送水管より取水し濾過して配水したとのことでした。
まだ冷蔵庫が普及していない頃,父の用事で芝生田のお宅を訪問した時のことを思い出しました。そこの小父さんが子供の私に,「水道水でサイダーを冷やしてあるから持ってきて飲んでよいよ」と言われました。水道の所に行くと知らない人たちがいて,持って買えると泥棒をしているように見えると躊躇しました。小諸の水は冷たいのです。しかもおいしいのです。関東に住むようになってから,実家に帰って水道水で洗い物をすると,真夏でも手がかじかみます。大学に通うため首都圏に出てきた頃,東京の水道水を飲んでみて「こんなにまずい水があるのか」と思ったものです。
昔は,南町,大手町を貫く国道(現国道141号)は18号でした。そして,その舗装はコンクリートでした。コンクリートはセメント,砂利,砂の混合物を水で練ったものですから流動性があります。10 m程度の長さの枠を作りそこに流し込んで固めます。そのため約10 mごとにつなぎ目があります。車を走らせると,昔の汽車みたいにゴトンゴトンと音がしました。そんな訳で今はアスファルトが主流となっています。昭和30年代のことでした。コンクリートの下に埋め込んであった水道管から水漏れが起こりました。その水はコンクリートのつなぎ目から流れ出ました。これは真冬のことでした。流れ出た水はどんどんと凍り,その付近はスケート場のようになってしまいました。走ってきた車やバイクは突然に氷の上に載ってしまい,事故が連続して起こりました。恐らく連絡された警察が対策を取る間に何件も事故が起こってしまったのでしょう。その現場は南町の岸田酒店の前でした。
ドラマ「一橋桐子の犯罪日記」を見て,昔小諸で起こった事件を思い出しました。松坂慶子演ずる桐子が犯罪を犯して懲役になりたいと,お札をコピーしようとしている場面がありました。確か昭和30年代だったと思います。新聞の折り込みチラシにお札の写真が載っていました。たぶん,真ん中に「見本」と印刷されていたと思います。その翌日の新聞で,このチラシの札の部分を切り取り実際に使おうとした人があったそうです。「見本」と書いた部分を折って隠して店員に手渡したそうです。質感も全く異なります。この犯罪は子供が思いつく程度のものでした。Google Streetの画像はその犯人がお世話(?)になったと思われる,当時の警察署(今は引っ越してしまっています)のあった場所に入る交差点です。Google Streetでは,この先には進めませんでしたので,この場所を示します。
子供の頃,父が土産にソフトクリームを買ってきてくれました。ソフトクリームはすぐに溶けるので,もらった時はたらたらとたれていたのを覚えています。揚羽屋から買ってきたらしいです。揚羽屋はうどんやラーメンなどを出す食堂みたいなところでした。当時ソフトクリームも扱っていたのでしょう。藤村は著書,“千曲川のスケッチ”で,揚羽屋のことを「下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところ」と書いています。明治から大正にかけてのことです。子供の頃(昭和20年代)は食堂みたいなところでしたが,藤村が見たこのお店と私が子供の頃見たお店は違うものだったのでしょうか。
佐久鯉は有名ですが,母方の実家から受け継いだ鯉のうま煮や鯉こくはふるさとの味として忘れられません。実家で集まるとき,鯉の料理も定番です。一緒に鯉を買いに行ったことは思い出です。場所の記憶がはっきりしませんが,Google Mapで大門小路と書かれた通りにあったような気がします。プールのような生簀が2つほどあり,そこから網ですくいあげたことを思い出します。大きな鯉一匹を使ったと思います。今は小諸に行っても駅前の遠州屋さんくらいしか食べられる場所を知りません。
子供の頃,親が「フルスに行ってきた」と言ったことがあります。まだ幼い子供だったので,地理的遠近の認識ができていない頃でした。[フ]ルス(角括弧はアクセントの位置)と聞こえました。スイスの地名のように感じました。ヨーロッパの素敵なところに行ってきたのだと思いました。後で考えてみるとフ[ル]ス(古巣)という飲み屋だったのだと思います。駅の近くの飲み屋街にあるお店だったのでしょう。
昭和40年代に小諸市民会館に東京キュウバン・ボーイズがやってきたことがあります。小諸市民会館も今はないようですね。もっと充実した新しい施設に変わったようです。市民会館だった場所は現在,市役所になっているようです。
友達と誘い合わせて聴きに行きました。4人で行った記憶があります。一人は目をつむっていたらしいです。それを見たもうひとりの友達は,「目を閉じて聴くのが良いのか」と真似をして聴いたとのことです。後で最初に目をつむった友達は寝てしまったというのが真相だったとのことです。私は大変楽しく鑑賞できました。人によりずいぶん異なるものだと思いました。
小諸図書館にはお世話になりました。Google Mapで見ると昔(昭和60年頃)の図書館はもうないようです。今は昔よりずっと充実しているでしょう。中学生の頃,「化学普及図書」というのをよく借りました。ロシア(またはソ連)の本を翻訳したものでした。相対性理論や宇宙のこと,科学技術のことを目を輝かせて読んだものです。新しい技術は皆ロシア人が発明したものでした。後にわかったのですが,「ロシアでは海外で発明されたものを再現実験し,それを実現させたロシア人が発明したことにする」という慣習があったとのことです。
この頃の小諸図書館は自習室と書架との間に低い境があり,境の先で本を見つけ,借りる手続きをしたり,自習室で読んだりしたものです。高校生3年生になると,高校の帰りに小諸図書館に寄り仲間と勉強したものです。夏には,勉強をしていると雷が鳴り,よく夕立になりました。