☆ 上 田 城 ・ 復 興 4 0 0 年
不落城の「 百 間 堀 」
(二の丸堀の水郷・ひゃっけんぼり)とは?
上田城の南側は、千曲川に流れ込む「沼地(尼ヶ淵)の段丘(12m)」
となっていたため ” 不落の尼ケ淵城 ” とも呼ばれた
* 真田氏と上田城
東信濃の一豪族であった「真田幸綱」、
当時、信濃の守護代「村上義清(坂城町)」が、東信一帯の勢力拡大を進めて
いたため、真田氏は、隣国・上野(こうずけ・群馬県)に移り、
「武田信玄」に仕えながら、「上州・沼田」を領有していた。
その後、「徳川家康」との同盟により「沼田藩主」として認められる。
信州「真田の庄」に凱旋した後継者「真田昌幸」は、
千曲川流域を統括する「上田城」築城を考える。
この頃、越後では、「上杉謙信」の後を継いだ「上杉景勝」が、
武田氏滅亡の後、信州に侵攻、あの「川中島合戦」跡まで進出、
「上田」に迫っていた。
徳川・真田 共通の敵となった「上杉軍」を迎え撃つため、
「家康」は、「真田昌幸」の上田城築城を認め、徳川の資金で急ピッチ
で建設が進んだ(1583年=443年前)
同じころ、「家康」は西の「豊臣秀吉」に対抗、進軍するため、
背後の敵「北条氏」と同盟を結んだ!
” 信州は徳川、上州は北条 ”
この取り決めにより
「家康」は「真田氏」に ” 沼田を北条に渡せ! ”
激怒し た 「真田昌幸・幸村親子」 は、「豊臣秀吉」の重臣「 上杉景勝」
と同盟を結び、
以後、「豊臣家」に忠誠を誓う!
今度は、豊臣の資金にて築城を進め、徳川に対抗!!
現在はケヤキ遊歩道(さらに「外堀」が有ったので「二の丸堀」とした)
* 第一次上田合戦
怒った家康、自分の資金で建設した「上田城」へ大軍を送り込む!
徳川軍7000×真田軍1500
” 真田軍は少兵にて徳川軍を撃破 ! ”
* 第二次上田合戦
「関ヶ原の合戦場」へ向かう「徳川秀忠軍」の進路を妨害
上田へ誘い込む
徳川軍38000×真田軍2500
” 二代将軍となる秀忠軍を再度撃破! "
その後、「関ヶ原」での西軍敗戦で、
昌幸・幸村親子は「和歌山・九度山」に蟄居!
建設半ばの上田城を「徳川」は、一部を残し取り壊し!
ところで、
上田城の「西虎口門跡」下に「上田市営の野球場」がある、
「日本の野球聖地150選」である。
ここは、「百間堀跡」であるが、百間って180mの堀?
内堀でなく、二の丸堀にしては大きすぎでは?
* 二の丸堀 が ” 野球聖地150選に! ”
上田城・西北方面の 二の丸堀は、 特別に広い ” 百閒堀 ”、
現在、市営の「野球場」や「サッカー場」となっている
現在の百間堀野球場(1928年開場=S3)
当時、球場から西櫓が見えたが、
現在は「西虎口公園」の樹木がいっぱいで見えない!
野球場・陸上競技場・サッカー場
になった「百間堀」って 何?
関ヶ原の敗戦で廃城同然となった「上田城」
「仙石忠政」が復興初めてから400年(1626=寛永3年)
現在、当時の資料を基に「武者だまり」など復元中であるが、
百間堀を作った経過をたどってみ見ると、
徳川の大軍が攻めきれなかった”知恵のお城”が見えてくる
(次回)
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