☆ 下 諏 訪 (しもすわ) ・・ 浪人塚 (水戸天狗党)
和 田 峠 下 合 戦 跡 (浪人塚・下諏訪町)
(水戸浪士10余、松本・諏訪勢10の戦死者、
諏訪高島藩はこの地に塚を造って葬った)
数年後には明治維新となる幕末(1864) ・ ・
水戸藩内では保守派と改革派(攘夷派)が激しく対立
” 尊王攘夷 (天皇を尊び、外国を打ち払う思想) ” 派の頭領
「水戸天狗党・武田耕雲斎」 は、
筑波山で挙兵 ・ ・ 京へ向かう !
「孝明天皇の信頼あつい 一橋慶喜 」
後ろ盾と思う 慶喜(前水戸藩主・徳川斉昭公の子息)に 「攘夷思想」 を訴える
ためで、
千の兵と共に暮れの11月筑波山を出発した ・ ・
幕府からは天狗党の追討令が出たものの、道中、
北関東「(常陸・茨城県)、(下野・栃木県)、(上野・群馬県)」 の諸藩は やり過ごす
策をとったので、下仁田(上野)での小戦闘を経て、
「内山峠」 越えて信州へ入っても、佐久地区も勢いを持ったまま無風で通過
して行った !
和田峠・人馬休息所(長和町)
* 和田峠 の戦い
しかし、諏訪湖を見下ろす 「和田峠」 を越えた時、その戦いが始まった!
幕府の命を受けた 「諏訪 高島藩」「松本藩」 の連合軍が進路を塞んだ ・ ・
激戦となったが、天狗党の鉄砲などの武器は旧式だったため、
戦死者は少なく双方10名ほどだった!
* 下 諏 訪 町 (しもすわ) 散 歩
霧ヶ峰・八島湿原(下諏訪町)
諏訪大社・下社の「御柱祭」 45度の木落とし坂
(下諏訪町・ 来年は”おんばしら”!)
中 山 道 ・ 下 諏 訪 宿
(甲州街道が中山道に合流した下諏訪宿は街道一の賑わいだった)
諏訪大社 下社 秋宮 (しもしゃ・あきみや 下諏訪町)
諏訪大社 下社 春宮 (下諏訪町)
万治の石仏 (春宮境内)
* 天 狗 党 そ の 後
連合軍は、「和田峠の戦い」から兵を引いたため、天狗党は先へ進み、
天竜川 → 伊那路 → 美濃(岐阜県) → 越前(福井県)
(水戸 ⇔ 敦賀 直線距離で400km! )
幕府・諸藩の妨害を避けながらようやく 「越前」 にたどり着いた ・ ・ が、
「敦賀(つるが)」 にて、慶喜公が ” 天 狗 党 討 伐 ” を鮮明にし、
陣頭指揮したため ついに 投降 !
ここに、水戸藩・長州藩などの列強、宮中 を巻き込んだ 「攘夷論」
は収まって行くのであった!
下諏訪町から見る諏訪湖 (しもすわ町HP)
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