1980年代に就職したのは、国際展開に積極的な企業だった。しかし、今から思えば当時の海外人事は、まだまだ試行錯誤の段階だったと言わざるを得ない。

 

 高度経済成長の時代は終わっていたとはいえ、自動車や家電メーカーが世界を席巻し、日本企業の強さは世界中で注目を浴びていた。人事部内には「日本の新卒一括採用や終身雇用制が強さの秘訣だ。海外の現地採用でも同じ方式をとれないか」という意見があった。

 

 問題は新卒給与が安めに抑えられているため、海外で優秀な人材を集めにくいことだ。そこを「初任給は安いが雇用が安定しており、長期的には給与が上がっていく」という日本式の論理で採用できないか、という試みだった。

 

 1987年、アメリカ・カリフォルニア州の工場に赴任した時、生産計画の職場にB君というアイルランド系アメリカ人の若者がいた。おそらく、彼はこの「日本式」の基準で採用されていた。

 

 地元の大学を卒業後、日本式経営に関心があって(その割には日本語の知識はゼロ)入社したとのことだった。しかし年俸は2万7000ドル程度。ルームシェアでなんとか暮らしている状態だった。「大学の同級生の給料に比べるとみじめだ」とこぼしていたが、上司は「君は将来の幹部候補生」と持ち上げ、近いうちに日本出張に行くという話も振っていた。

 

 そんなある日、日本の事業部長を招いた重要な会議が開かれた。

 

 B君は担当者として生産状況の発表説明をする機会を与えられ、張り切っていた。しかし、会議を終えたB君は、青ざめた顔で落ち込んでいる。

 

 原因はこうだ。B君が発表している途中、日本の事業部長と工場長が日本語で激しい議論を始めてしまった。B君は内容もわからぬまま、10分くらい立たされた状態で放置され、訳のわからないうちに自分の出番が終わってしまったという。

 

 日本の営業会議などでよく見られる、発表者を立たせたまま待たせる「立ちん坊」状態だが、それを内容不明の日本語でやられたのだからショックは大きかっただろう。

 

 彼は数か月後に会社を辞めてしまった。

 

 工場内では「アメリカ人が一人でもいたら日本語の使用は不可」とするルール案も赴任者から出されたが、ついぞ実施されることはなかった。

 

 1990年代になると、アメリカでの新卒一括採用のような話は消え、給与も経験に応じて支払われるようになった。場合によっては、日本人赴任者以上の金額が現地社員に支払われるようにもなった。

 

 経費の面でも、アメリカ現地法人の社員は日本出張に皆ビジネスクラスを利用できるのに、東京本社からアメリカに出張する一般社員はエコノミークラスという、逆転現象まで起きるようになった。

 

 今後、リアルタイムの自動翻訳機などをうまく活用すれば、赴任者のみならず、現地社員の側でも「言葉の壁」による勤務ストレスは改善されるのではないだろうか。もしあの時、会議室に翻訳機があれば、彼の結末も違ったのかもしれない。

 

 B君、日本企業で働くには、少し時代が早過ぎたのだろうか。

 

1993年ブエノスアイレス・アルゼンチン - ラ・ボカ地区。サンティアゴを長距離バスで朝出発して翌早朝ブエノスアイレス着のアンデス越えの旅。有名なパンパは夜のため見えなかった。肉も美味いが当時チリではコレラ菌の汚染で食べられなかった生野菜がアルゼンチンでは可で、サラダを貪り食う。