LP 『わが青春の北壁』 の ライナーノーツより引用

「翔ばたくミュージカル・スター西城秀樹」  安倍 寧

 西城秀樹が単身、劇団四季の俳優たちのなかに飛び込んで、ミュージカルの主役をつとめることになったのは、彼が四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見たことがきっかけであった。昭和51年7月某日のことである。

 のちに、西城は、私に、その日の興奮ぶりをこう語っている。

「見ている間じゅう、からだが、かっかと燃えていました。見終わってからの感動が忘れられません。ぼくの知らなかったところで、こんなにすばらしい仕事をしている人たちがいるのかと、すっかりショックを受けてしまったんです。」

 西城が、劇団四季のミュージカル・グループとしての実力を知らなかったのは、確かに不明というものだろう。

 越路吹雪を中心にした「アプローズ」「日曜はダメよ!」などの舞台で、その実力はつとに高く評価されているのだから。また、四季は、独自の子ども向けミュージカル路線を14年間も続けてきているグループででもあるのだ。

 たまたま西城の見た「スーパースター」は、四季の長年、培ってきたミュージカル・チームとしての実力が、フルに発揮された舞台ではあったが、それ以前の、このグループの努力の積み重ねも忘れられてはなるまい。

 もっとも、西城のような超売れっ子の流行歌手が、ある程度、世間知らずであっても、それはあまり責められるべきことではないかも知れない。

 私が、この際、むしろ強調しておきたいのは、西城が四季と出会った時の、その素直な態度である。ショックをショックとして受け止めた素直さである。

 しかも、彼は、自分にショックをあたえた四季の俳優のなかに飛び込んで行き、いっしょに仕事をしたいという気持ちを持つに至った。おどろき、興奮、感動にとどまることなく、それを行動にまで発展させた西城秀樹を、私は、若いに似合わず大した奴だと思わずにはいられない。

 そはいってはなんだが、1曲3分程度の流行歌をレコーディングすることと、何ヶ月もかかってミュージカルの舞台作りに励むこととでは、費やすエネルギーが違う。それだけに苦労も多い。

 しかし、その苦労は、創造の歓びを味わえることによって、じゅんぶんに報いられる。きっと西城も、ミュージカル「わが青春の北壁」の主役に挑むことで、苦労と創造の歓びとふたつながら、味わうことができたにちがいない。

 ちなみに、演出家の浅利慶太氏は、早くもけいこの途中で西城を評して、

「ミュージカルに耐えられるだけの歌唱力の持ち主。踊りはこれからだが、三叉神経がいいから、まず、ぼろを出さずに行ける。演技者としても素質抜群、もっとも、こっちは、ぼくが大いにたたくけれども……」 と言っている。

 つまり、浅利氏は、西城のミュージカル俳優としての可能性を、そうとう高く買っているということだ。

 こんどの「わが青春の北壁」は、西城のヒット曲の作詞を数多く手がけてきた阿久悠市が台本を執筆した。男っぽい骨太のストーリーである。

 作曲の三木たかし氏は、「ジーザス・クライスト・スーパースター」の編曲者をつとめていて、浅利氏とは気持ちの通じ合える仲である。西城は、まずは万全のスタッフに囲まれたといっていい。

 ところで、劇団四季プラス西城というかたちのミュージカルは、この1作で終わるものではない試行錯誤を重ねながら、一歩一歩、完成に近づいて行くことであろう。

 アソシエイト・プロデューサーといういう立場にある私からも、ぜひ、この企画を長い目で見守ってくださるよう、ファンの皆さんにお願いしておきたい。

 

https://ameblo.jp/abe-yasushi/entry-12387988809.html

↑こちらは、安倍寧氏のブログの記事、

西城秀樹唯一本のミュージカル 『わが青春の北壁』 です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E5%AF%A7

↑安倍寧氏のご紹介

浅利さん、阿久悠さん、三木さん、みなさん、お若いです。

1977年なので、ヒデキ22才です。