俺たち一家は蜘蛛が天敵だ。都会へ逃げたのも蜘蛛が出やすい森から逃げるためと言っても過言ではない。とは冗談だが、紺の進学のため、森から出て、蜘蛛との遭遇率が低くなったのは正直助かったと思っている。
虫は全く平気な紺は、最初こそきょとんとして、頼もしくも蜘蛛を部屋のから追い出してくれていた。しかし蜘蛛が出たと騒ぐ俺たちと一緒にいる間に、紺まで蜘蛛が大嫌いになっってしまったらしい。あんな醜悪な生き物だ、男のふりをしていると言えど、女の子の紺が恐ろしさに気がつかないはずがない。
ここは都会な分、清潔にしていれば虫は湧かない。ということはそれを捕食する我らが天敵も湧き出ない。東森を制する狼の子どもらとその保護者が情けない話だが、肉食獣よりも蜘蛛が怖い。
「ここくもでないねー。良かったねー」
にこにことする紺に、アルはぴよぴよと笛を鳴らし、俺はうんうんと頷いた。
この町はどちらかといえば貧しい部類に入るが、人々は町内の美化につとめていた。治安もいい。蜘蛛も出ない。いいところだ。
しかし全く出ないわけではないのである。奴らはいつもこっそりと忍び込む。
その日は朝のうちに買い出しに一人で出ていた。紺は喘息の気が出ていたので、アルと一緒に留守番を命じていた。まだ幼い養い子らを二人きりは不安がある。秋に入り、寒いため暖炉に火を入れた。それに白い肌のラニアの子供は人身売買の標的だった。まれに白ラニア狙いの押し入り強盗も起こるのだ。
今日は警備員代わりの花屋は出張で休業日である。急いで買い出しをすませてアパートに戻る。階段を登り始めると、うちのドアが勢いよく開いた。飛び出してきたのは眼帯の子供と笛をくわえたオッドアイの子供。紺とアル、俺の養い子の二人だった。
「にぃさんー!」
アルはぴよー!と笛を鳴らしながら、二人は俺に抱きついてくる。熱烈なおかえりだ。頬が緩む。紺はよく抱きついてくるが、アルはあまり抱きついてこない。
「ただい」
「くもがでた! でっかいの!」
非常事態宣言である。
蜘蛛は恐ろしい。どれだけ恐ろしいかは震えが走るので言えないが、とにかく全てが恐ろしい。畑にいるさかさかと動く土蜘蛛も、黄色と黒の体が禍々しい蜘蛛も、どれも苦手だ。嫌いだ。この世からいなくなればいいと思っている。蜘蛛へのトラウマは樹海で大蜘蛛に襲われて植えつけられた。深刻な心的傷害を負ったのだ。だから仕方がないのである。天井の隅に黒々とした蜘蛛を見た瞬間、俺は早々白旗を掲げた。手のひらくらいある。もう無理だ。
俺が敗北を喫したのに気が付いたのか、やつはかさかさと天井の真ん中にやってきた。俺は紺とアルを腰にぶら下げたまま後ずさって部屋を出る羽目になった。もはや我が家はやつに占拠されたのだ。ちなみに飼い猫が部屋にいるが、のんきにテーブルで香箱を組んでいた。野生のやの字もない家猫なので期待はできない。というか狩らせたくない。猫に触れなくなる。
下で「にいさんどうするのー」「ぴよぴよー」と養い子らがせっついてくるがどうしようもない。戸を開けたままやつが出ていってくれるのを待つしかない。踏み込んでうかつに手を出しでもしたら、やつが天井から落ちてきて、それが俺の頭に落ちようものならうわああああああ
紺が咳をする。「さむい」とつぶやいた子供に情けなくなった。アルも寒いと思っているだろう。俺はやつ一人退治できないのか。意を決して踏み込むと、やつはかさかさっと後退した。俺はビビって飛びずさる。無理無理。絶対無理。この世の終わりだ。
「なにやってるんですか?」
不審そうな女性の声がした。振り向くと隣の隣の部屋に住む女性がいた。俺は恥も外聞もなく、その名も知らぬ女性にすがった。 「助けてください!」と叫ぶ俺に「はあ?」と片眉をあげる女性。
「やつが、蜘蛛が部屋に出てどうしようもないんです! でっかくてわさわさしたのがあああ」
口にするだけでも全身の毛が総毛立つ。
「蜘蛛くらい自分でどうにか……」
タイミング良く、紺は後ろでくちんとくしゃみをした。ぶるっと体を震わせる。季節は秋の中ごろ、陽が出ていても空気は冷たかった。
「おねがいします、おねえさん。さむいけどおへや入れへんの。にいさんもぼくもくもが怖いんです」
女性を見上げて可愛くお願いした紺を褒めてやりたい。上目づかいに、子供の精いっぱいの敬語の中にお里言葉はなかなかポイントが高いはずだ。紺は眼帯に黒と茶の混じる髪、赤い目と珍しい見た目をしているが、白ラニアの子供というのは総じて可愛らしい顔をしている。アルもそうだ。女性は幼い紺を見て、さらに幼いアルを見て、俺を見てため息をついた。気分はさながら捨てられた子猫である。
「蜘蛛はどこですか」
ため息交じりの女性を女神だと本気で思った。
女性はヒールを脱ぐとさっさと箒を手に取り、天井の黒い悪魔をはたき落した。俺は紺とアルを背中に張り付かせて部屋の外にいて、体をのけ反らせていた。女性はさっとちりとりでやつをすくいあげ、箒で蓋をしてこっちへやってくる。 「ひぃいいいっ」 とさらに後ずさろうも、柵の間に子供らをぎゅっと挟んでしまうだけだ。
「ほんとに苦手なんですね」
「無理、マジ無理ですから早く捨ててください!」
女性はぽいっと二階から黒い悪魔を投げた。男らしい。惚れる。おねえさんすごいー、と紺に称賛を送られて女性はまんざらでもなさそうだった。
「すいません、ほんとにありがとうございました……」
「いいえ。もう大丈夫ですか?」
「はい、ありがとうございました……」
箒とちりとりを受け取る。ことが過ぎると恥ずかしいやら情けないやら、ペコペコ頭を下げるしかない。大の大人が蜘蛛ひとつで情けない。子供用のおやつだったが、お礼にと焼き菓子と果物を一つずつやった。見知らぬ女性を子持ちとはいえ、男の部屋に上げてしまった。
「すみません、本当に助かりました」
「いえ。では私はこれで」
「おねえさんありがとー」
お礼を言う紺と、人見知りして控えめにぴよーと笛を鳴らすアルの頭を、女性はぽんぽんと撫でた。少し戸惑っているところを見ると、子供慣れしていないらしい。強張っているが少し笑顔を作り、「蜘蛛は怖くないから大丈夫よ」と言い残して帰って行った。ああ不器用かっこいい。
何はともあれ、危機は去った。それそれと子供らの背中を押して、部屋に入る。開けっ放しで冷えた部屋を暖めるべく、薪を足す。隅から隅まで思いっきり掃除をして落ち着いた。暖炉の前でアルを抱えた紺をよいしょと抱え込んだ。飼い猫は暖かい場所を求めて、アルの膝に乗り上げる。
それにしても、あの女性、引っ越してから初めてちゃんと話した。両隣と上下の部屋にはあいさつをして顔見知りだが、隣の隣までは面識がない。ゆるく巻かれた黒髪、厚い化粧、真っ赤な口紅。大胆に空いた胸元には深い谷間、すらりと長い手足。上着を羽織った露出の高い服装に、夜の接客業だろうなと検討をつける。朝帰りといったところか。貧しい部類に入る街なので、女性がそういう職に就いていることはままあることだ。
「……いい女だったなあ」
「いいひとだったねー?」
俺の下心満載なつぶやきに、紺に無邪気な答えを返される。「そうだなあ」と苦笑いして、紺の頭に顎を置いた。
「これでなにか縁ができないか」というつぶやきは、子供の手前心の中にしまっておいたのだった。
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(間違って消してしまって再うpでした)