加藤藤紋 丸に井桁紋 有馬立ち沢瀉
室町から戦国の時代は名字・家紋が急増
天下統一を目指した織田信長が本能寺の変で非業の最後を遂げた後、覇者となったのが豊臣秀吉でした。尾張の農民出身の秀吉は織田信長に仕え木下藤吉郎秀吉と名乗っていました。
そして、織田家中でも有力な武将であった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ取って、羽柴秀吉と名乗ったのです。
武家社会では主君が家来に自己の名字を与え主従の絆を強めることがありましたが、秀吉はうまくこれを利用して家来を増やしていきました。
天皇から「豊臣」の氏を授けられた秀吉は、以後、武士の官位に際してはすべて豊臣の氏で受けるよう命じました。豊臣は名字ではなく源平藤橘と同じ氏であったため、この氏を乱用したとも解釈できます。
同じように天皇から与えられた菊紋と桐紋も、秀吉は論功行賞で家来に与えたりしています。まあ、秀吉は従来の形式にあまりこだわらず自由奔放に行動したともいえますね。