32歳までひきこもりという異色の経歴を持つ作家、田中慎弥の、わりと最近(2022年)の作品。
文庫本一冊で完結するくらいが一番読みやすい。
諸事情で職場で長時間会議室にこもりきり読書する時間を与えられて、みっちり読み込ませていただきました。
谷崎、川端、三島といった文豪らを敬愛している田中の文章は、直観的な文章のよう。悪く言うと読みにくい。
ただ難しすぎて読みにくいと言った類の読みづらさではなく、簡単な言葉を直観的に並べるとこういうことになるんだろうな、と。良さでもあり悪さでもある。
この一冊読み切った後に村上春樹を読んだらものすごくスラスラ読めるから不思議だ。
人間の耳が例えば好きな音楽がそれぞれ違うのは、体感的なフィーリングの部分が大きく作用していると思う。
文章も同じで、フィーリングに合う文章とそうでない文章というものが存在する。
田中慎弥が読みやすい、という人ももしかしたらいるのかもしれません。
でも読んでいてそれほど不快感というものはありませんでした。
ストーリーの展開のおかげでか分かりませんが。
世界の終わりとハードボイルドワンダーランドのような、二つのシーン・二つの時代で構成され、おそらくそれぞれ1980年代と2020年代。
前半はデパートのエレベーターホールのようなところである女性と出会う、というような出だしで、最後の方にも同じようなシチュエーションで締めくくるので、話が冗長になりすぎるようなことはない。
中盤の緑という同級生の女子と絡み合うシーンがおそらくこの小説の最も核になる部分なんでしょう。
キスシーンで「緑(相手の名)を吸い込んでしまう。緑が自分と一体化する。しかしまだ自分自身にはなっていない」というような件は、感覚的に共感を産むのと同時に今まで経験したことのないフレーズの並びだった。ありそうでない。秀逸。
ただこの緑とその娘の静という二人の女性に関しては、ここまで性格の悪い女いねえだろ、というくらい嫌味のオンパレードだった。こういうキャラクター設定なんだろうけど、フィクションとはいえ読んでいるこちらも鼻持ちならない気分にさせられた。
しかしながらそれは作者にとっては願ってもないことなんだろうな。例えばお芝居で主人公に対する敵役の俳優に本気で腹を立て、その俳優の顔を見るたびにムカムカしてくる、というのは、その役者にとっては、見る者に感情移入させているという意味で俳優冥利に尽きるのではないか。それと同じで作家が書いた人物に本気で腹を立てさせるというのは、がぜん作家冥利につきるといえるのではないだろうか。
主人公とガールフレンドが恋に落ちてハッピーエンド、というわけにはいかず、かなりもどかしい幕切れではあったが、村上春樹に登場する主人公ほど(例えば金で女を買う男はつまらないとか、俺は若いころはセックスは無料だったとか)鼻持ちならないクソヤローではなく、人の共感を得やすい生い立ち・役柄のため、わりと感情移入はしやすかったように思う。
まだまだ伸びていってほしい作家です。