結婚という刑務所。 | 止揚。(旅ブロその他)

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結婚をすることを"身を固める"というが、身を固めるということを、人間がある場所・ある組織・ある関係性を固定したり制限したりするという意味だと考えれば、刑務所と同じだと思った。

刑務所では移動の自由、娯楽の自由、人間関係の自由が制限される。

結婚も、移動の自由が制限される。
一義的には、夫婦で例えば地方や外国に移住したりする自由はあるように思える。
しかしあくまで別々の個人である男女ならば、例えば片方が転勤等で引っ越しを迫られたりすることもありえるが、その移動が双方の意思に沿うものかどうかは未知数だ。
このこと一つ取っても、結婚がある種の自由を制限するという行為であることに変わりはない。

なぜ結婚という刑務所に"披露宴"という形でセレモニーまで催して、あたかもレッドカーペットを敷いてお膳立てて、喜び勇んで自ら入り込んでいくのかといえば、その刑務所のオリの中にお花畑があるという前提だからだ。

僕は結婚をしたことがないから、結婚というオリの中がどうなっているのかは想像することしかできない。

だからオリの中にはたして実際にお花畑があるのかないのかについては、結論を保留しておく。

しかしながらシャバの新鮮な空気を敢えて離れて、結婚生活の臭い飯を食べることを選択するのであれば、「そこにお花畑があるのだ」という前提がなければ成立しないので、仮に結婚を積極的に選択するのであれば、そういうロジックをこしらえておく必然性があるだろう。

しかし結婚が仮に"身を固める"ことを意味するのであれば、自分からわざわざ固まって流されて生きていくのはまっぴらゴメンだ。

結婚を"身を固める"と定義するのか、それ以外の在り方として受容するのか。

そこらへんをよく考えてみる必要がある。