日本人は、ある一つの宗教の信者である。【宗教論】 | 止揚。(旅ブロその他)

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よく日本人の多くが無宗教だという話をすると、反証としてクリスマスでキリスト教に、正月に初詣で神道や仏教に、冠婚葬祭で云々…といった形で、日本人はさまざまな宗教をジャンクフードのように消費しているではないかと評論家などが語ったり、あるいは日本人の多くもそのようなセルフイメージをもっているかもしれない。

でも日本人にとってむしろもっと身近なところに宗教は存在する。

それは上記のクリスマスやら初詣といったイベントとして消費するようなものとは全く別のものとして、しかも日常的に、空気を吸うように当たり前に抱いているもの。

それが"常識"である。
あるいは"世間"でもいいかもしれない。

宗教とは信仰等を通じて人間の合理性や規範とは別のさらに抽象的な上位概念を標榜するものだ。

その意味で、常識も行動倫理として合理性よりも優先される機会があるとすれば、それはまさに宗教的に合理性よりもさらに上位概念を標榜する心の動きである。

したがって、常識とはひとつの宗教である。

実家に暮らしているときに、鮭のムニエルを食べようと醤油をかけようとしたら母親に

「鮭のムニエルにはタルタルソースをかけるのが常識」

と言われたことがある。

食事にもある種の秩序が求められる。
しかしこの食卓を囲んでいるのは自分一人しかいない。
高度なテーブルマナーが求められるようなスキームではない。
あるいは鮭のムニエルに醤油をかけるとダイオキシンが発生して空気が汚れるからやめてくれ、とか、アタシは醤油の匂いが生理的に苦手だから使わないでくれ、という何かしら合理的な説得が伴うかといえばそうではなく、そうした理屈を一切抜きで

常識

をまず第一優先的に提示するのである。

しかも第一優先的に示すだけで、第二第三のテクストが何かしら存在するわけではなく、単にそれが常識なのだということしか言わないのだ。

常識とは合理的なりの判断の末に結果的にマジョリティ化した認識なのだとすると、何かしらの合理的な事由があってはじめて登場してくるものだから、それよりも先に来てしまう概念とはいったいなんなのか。

これはイスラム教徒が豚を食べなかったり酒を飲まなかったりということの理由が合理よりも信仰を優先する判断となんら構造的に違いはない。

ただイスラム教徒で教義を侵犯することと、母がいう鮭にタルタルソースという常識を侵犯することの間には規範的な強制性に強弱があるだけにすぎない。

常識の厄介なのは、ひとつは日本人自身が常識や世間というある種の上位概念を、宗教的な教義と構造的に同じだということに対して無自覚だという点。

そしてふたつめは、常識には検証を求められないこと。

宗教には教典なり何なりといった形で検証材料がある。そこに書かれていないものを教義として強要すれば、教典への不記載を反証として提示できる。

常識にはそれが存在しない。

「勤務中はネクタイをするのが常識だ!」

といっても、その説得の正当性を検証することができない。
だから単に

「常識だ!」

と言ったもの勝ちであり、しかもそこには宗教的理念と同様、合理的な事由は何も求められない。しかも強制力があるという、極めて非合理かつ御都合主義の金字塔ともいえる空前絶後の上位概念である。