有為の奥山 今日越えて

 

現代人は信仰心が薄れているとよくいわれます。あまりに時代の流れが速く、頭で考えても心が置き去りになっている気がします。情報に振り回されて感覚が薄れている。根っこが張っていないのに多くの葉を茂らせようとしている…そんな時代だからこそ信仰心を持たなければならないと思うのですが、現実には信仰心は生活には必要のないものとして切り捨てられています。僕は信仰心が薄れた原因の一つに、幼少教育のなかで個人個人への「無常観」の浸透度が低いことが影響していると考えています。「いろは歌」でことばを覚え、諸行は無常であるとの仏教的情感を理解した昔の日本の子供達。五十音で記号のようにただ言葉を覚え、降り積もってくる情報を上手に捌いていくことが要求される現代の子供達。想い比べてみると、昔の子供のほうが情報量は少なくても心が豊かなように感じられます。

 

「無常観」は「死」と直結しています。生命の本質と言ってもよい。生まれてきたからには死ななければならない。いつかは別れなければならない。送り、逝かなければならない。     臨床心理士の大村哲夫先生によれば、「死」というものを理解しているのは人間だけだそうです。もちろん他の動物も目の前で死んでいる仲間を見ると「ああ死んでる」とはわかるのですが、いつか自分も死ぬのだという認識には及ばない。「死への不安」を持つのは人間だけだということ。人間は仲間が死んだとき土に埋めて、弔いに花を供えます。百数十万年前の古代人類の塚を調べると、化石化した骨と一緒に仲間が供えた花の化石も見つかるといいます。人間とチンパンジーは生物学的に言えば同じ生物と言えるそうですが、この「死」への理解や認識の違いが人間と動物の大きな違いであると言えます。人間だけが持つその特別な認識が「無常観」につながるのではないでしょうか。

 

時代が変わり、世相が変わって暮らしが変化しても、生きている人間の本質は変わりません。祖師最澄の時代も、寺子屋で学問を学んだ時代も、空爆を避けて疎開先で過ごした時代も生きてきたのは同じ人間。情報過多で心が痩せ細っていく人がたくさんいる現代も、生きているのは同じ人間です。同じ人間だからこそ、私は仏教徒として宗祖最澄等のの言葉をあらためて噛み締めてみたい。祖師達がが心から発した言葉の数々は、「無常観」や「信仰心」の薄くなった現代人の心にも響き染入ることと信じるのです。

 

僕は何も五十音を「いろは」に戻せとか、そんなことを言うつもりはありません。五十音の並びは悉曇(しったん)から来ているようだし、日本語の発音として美しく整理されています。日本語は語感がとても美しい。例えば日本人の好きな「さくら」の発音は、

 さ…無声歯茎摩擦音―息を舌の上にすべらせ、口元に風を作り出す。

 く…無声軟口蓋破裂音―口をすぼめて一点で風が止まるイメージの音。

 ら…歯茎側面はじき音―舌をひるがえして発音。花びらのイメージ。

 ○「日本語はなぜ美しいのか」

     黒川伊保子著 参照

 

であり、「さくら」と発音しているだけで、風が吹き花にあたり、ひるがえって花びらが散っていく現象を表しています。「いろは歌」だけではなく、私たちはこんな素晴らしく美しい言語を母国語として使っているのです。昔から日本人は言葉を大切にしてきました。言霊という言い方もあります。言葉には魂が入っているのです。僕は「無常観」や「美しさ」を母体としたこの日本語を大切にし、普段の言葉使いから心がけて発言するようにしたいと思っています。そして葬儀・法事等で話をする際には、その美しい言葉を噛み締めながら私の言霊に乗せて多くの人々に想いを伝えたいと思うのです。