ウィキペディアの記事によれば、北斎の出自については、意見が分かれている。
「北斎の出自を伝える確たる資料は見つかっておらず、・・・中略・・・家系については川村氏または幕府御用であった鏡師の中島伊勢の子とされる場合や、川村の子として生まれ、4歳のころに中島伊勢の養子となったとする説が一般的だが、確たる資料は発見されておらず、確定していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E
出自の話なのに、北斎の葬式の話から始めるのもなんだけれど、葬式の出席者をみれば、北斎の血縁者も分かるかもしれない。
北斎の葬儀の身内の参列について、飯島虚心は次のように紹介している。
「北斎翁、蓋し長男にあらず。長男なれば家を継ぐべし。次三男なる故に他に出でたるなるべし。四方梅彦氏曰く、翁は兄弟姉妹なきが如し、其の故は翁の葬式の時に兄弟姉妹および甥姪などは、来たらざりしをもて、知るべし。」(葛飾北斎伝、飯島虚心著、鈴木重三校注、岩波書店34頁,35頁)
結局、葬式に参列した血縁者は娘のお栄だけだった。
川村氏または中島氏の身内の参列があれば、参列していた方の血筋である可能性が高いと思うが、そのどちらの親族も参列していなかったのである。
出自というと父系と当然のように考えてしまうのはナゼだろう。
天皇制にまでつながっている問題でもあるが・・・。
今日的には母方の血縁も考える必要があろう。
北斎の母は「吉良上野介の臣、小林平八郎の孫女」と言われている。(前掲、葛飾北斎伝、31頁、32頁)
北斎は「母親が小林平八郎の孫女だということ」を常に人に語っていたという。(前掲、葛飾北斎伝、31頁)
小林平八郎は有名なのだろうが、その孫娘については、だからどうだと言いたくなる。
小林平八郎の孫娘だからといって、忠誠心や剣術が強いわけでもなかろうに。
有名人とつながりがあることを、自慢に思う心理は誰にでもあるように思う。
北斎も例外ではなかったということだ。
目の前にいる人が、ノーベル賞受賞者の孫か、あるいは泥棒の孫であるかは、本来なら本人とは関係ないハズである。
栄誉はノーベル賞受賞者のものであって、その孫のものではない。
責められるべきは泥棒した人であって、孫に責任はない。
実際に付き合ってみて、自身で判断するしかないのに、祖先の七光りで子孫を判断してしまう。
自分自身も祖先が立派だと、自分が低くみられるのは心外だという思い上がりがある。
北斎が自慢していた、母方の親族も葬式に参列した様子がない。
親族は案内を受け取っても参列しなかったのだろうか。
いずれにしても、北斎は親族とは長い間疎遠だったことが分かる。
何があったのだろう?
お栄が、北斎の門人北岑に送った葬儀の案内が残っている。
「四月十八日
深川下之橋
北岑様 栄拝
葬式明十九日朝四ツ時
卍儀病気之処養生
不相叶 今暁七ツ時に
病死仕候 右申上度
早々如此御座候 以上
四月十八日」
北斎が亡くなった次の日の19日に葬式というのは、結構な速さである。
北斎が病気になった時に年齢からみて、葬式の段取り準備をしていたのかもしれない。
また、菩提寺を誓教寺と決めていたのかもしれない。
もしかして、お栄の母親のこと(北斎の後妻)の葬式もお栄が取り仕切ったのかもしれない。
北斎の葬式は、門人や旧友等が参列し、「凡百人程にて、誓教寺へ赴きたり。」(前掲、葛飾北斎伝、170頁)
かなり大規模な葬式であった。
誓教寺は浄土宗のお寺である。
浅草の誓教寺にはお栄の母(北斎の後妻(こと))の位牌が今も保管されている。
その位牌には、
「文政十一年六月五日没、川村北斎室」とある。
文政十一年(1828年)は北斎69歳の年である。
北斎が後妻(こと)と再婚したのは1799年頃と推定されている。(北斎娘応為女集、久保田一洋、(株)藝華書院、144頁)
北斎と後妻(こと)の結婚生活は、ほぼ30年間であった。
お栄は、母の菩提寺と同じ寺で、父北斎の葬式をするのは当然と考えていたに違いない。
北斎自身は日蓮宗の熱心な信者だったという。(前掲、葛飾北斎伝、203頁)
(飯島虚心が墓所誓教寺は日蓮宗と書いたのは誤りで、誓教寺は浄土宗である。)
北斎自身は分家なので、必ずしも本家と同じ菩提寺にする必要はないと考えていたかもしれない。
北斎の墓は、今も浅草の誓教寺にある。
https://wave2017.hatenablog.com/entry/seikyo-ji-taito-ku
葬式を誓教寺で行ったのだから、そこに墓があるのは当然と思うかもしれないが、実際に墓が建てられたのは、北斎の曾孫の時である。
「此の画狂老人卍の墓は、寺僧の話によれば、加瀬*次郎といふ人が、後に建てたる所なりといふ。」(前掲、葛飾北斎伝、175頁)
*の漢字のへんは永、つくりは月である(永月)、読みは(えい)。
(北斎の墓の写真、前掲、葛飾北斎伝、172頁)
この写真を見たとき、かなり違和感を感じた。
「画狂老人卍墓」は、かなり崩した草書体で彫られているために読めない。
お墓の拝み石の正面はかなり粗削りのため、さらに読みにくい。
それに対して、下の石は、表面仕上げがなめらかで、さらに「川村氏」は行書体で書かれているために、はっきりと読める。
北斎の実際の肉筆画の署名は、行書体に近いので読みやすい。
墓の拝み石に「画狂老人卍墓」と書いた人は、北斎の実際の作品の署名を見たことがないのではないかと思う。
手紙に書く署名はかなり崩しているので、「画狂老人卍墓」の文字は手紙の署名を基に描いたのかもしれない。
全体として「川村氏」を強調している「北斎」の墓という感じである。
そもそも、この墓は、北斎専用の個人墓なのか、それとも川村北斎家の家族墓なのか、はっきりしない。
この墓の左側面には、北斎と後妻(こと)の法名が並べて刻まれている。
そうすると、この墓は、夫婦の墓なのか?
しかし、もう一人の法名が次に書いてあり、命日は(文政4年)となっている。
後妻の命日は(文政11年)なので7年前の命日ということになる。
7年前の命日ということは先妻の法名ではない。
川村北斎家の家族墓ならば、当然刻まれる先妻はなぜ刻まれなかったのか?
北斎の法名は南総院奇誉北斎信士と刻まれているが、お寺の過去帳には信士は居士となっている。
書き継ぎ転写の過去帳とはいえ、お寺の敷地にあるお墓に信士とあるのを、居士と書き間違うとは考えづらい、過去帳は正しいと考えるべきだろう。
後妻の法名の信女に合わせるために、北斎も居士から信士へランクを下げたのではないかと思う。
墓の左側面隅に
「祠堂金五百疋
白井多知女」と刻まれている。
五百疋は現在の価値で15,000円程度。
お布施の金額をお墓に刻むだろうか?
白井多知女が自分の名前を刻みたかったという強い意志が感じられる。
それに対し、この墓の建立者の名前はどこにも刻まれていないのは不思議だ。
全体として、この墓は何のために建てられたのかよくわからない。
超有名になった北斎の墓を建て、川村氏には、有名な北斎がいたとアピールしたかったのかもしれない。
この墓は白井多知女が企画し、息子の(永月)次郎(えいじろう)に建てさせたものではないだろうか。
北斎の出自が川村氏という説のもう一つの根拠は白井多知女の遺書である。
遺書と言っても、備忘録のようなもの。
「白井多知女の遺書に、北斎翁は、川村某氏の子にして、四五歳の頃、中島氏に養われ、長じて家を継ぎ、一旦御鏡師となりしが、後に長男富之助をして己に代わらしめ、己は出でて、て実家の河村氏を称せし由。」(前掲、葛飾北斎伝、174頁,175頁)
白井多知女は、後妻の息子の多吉郎が加瀬家の養子になり、加瀬家の娘と結婚して生まれた娘である。
多知女の「北斎は川村某氏の子」という知識は父の多吉郎から聞いたものだろう。
浮世絵研究者の林美一は、「川村家というのは、後妻こと女の実家と考えられる。」と述べている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ukiyoeart/17/0/17_208/_pdf/-char/ja
北斎自身は川村家を継いでいく気持ちはなかったと思われる。
そのことは、長男を中島鏡師の養子に出し、次男を加瀬家の婿養子に出していることからも推察される。
北斎家に残っているのは、離婚して戻ってきた娘のお栄だけである。
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さて、もう一方の、北斎は御用鏡師中島伊勢の子という根拠は、増補浮世絵類考の記述を基にしている。
「増補浮世絵類考に、北斎は次のように紹介されている。
「〝葛飾為一 明和の生れ、寛政の頃より天保の今に至つて盛なり
俗称 幼名時太郎、後鉄二郎 居 始本所横網町、数ヶ所に転宅して今浅草寺前に住す姓 葛飾を以氏の如くす。江戸本所之産なり(三馬云、御用鏡師の男なり)」(『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本))
https://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/frame13.html
(三馬云)の三馬は式亭三馬(しきていさんば)で、安永5年(1776年)-文政5年(1822年)、江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E4%BA%AD%E4%B8%89%E9%A6%AC
葛飾北斎は、宝暦十年(1760年)四代将軍 家綱(いえつな)の時代に生まれて、嘉永2年(1849年)十二代将軍徳川家慶の時に89歳で亡くなった。
式亭三馬と葛飾北斎は同時代の人である。
斎藤月岑(さいとう げっしん)が『増補浮世絵類考』をまとめたのが、1844年であるから、北斎が存命中のことである。
同時代の記述なので、増補浮世絵類考の「三馬云、御用鏡師の男なり」は信頼できるということになるだろう。
ただ、「三馬云、御用鏡師の男なり」は、養子であった可能性を否定できない。
話は変わるが、写楽の記述は、役者絵をかいてから50年後に増補浮世絵類考に記述されたものなので、それに比べれば、式亭三馬の補記は、よほど信憑性は高いだろう。
斎藤月岑が『増補浮世絵類考』をまとめてから、50年後の明治26年(1893年)に飯島虚心が「葛飾北斎伝」を出版した。
「葛飾北斎伝」の中で、飯島虚心は北斎の父について次のように書いている。
「父は、 徳川御用達の鏡師にして 、中島伊勢といひ、母は、吉良上野介の臣、小林平八郎の孫女なり。」(前掲、葛飾北斎伝、31頁)
鏡師とは、金属製の鏡を作る人である。
(京都伝統産業ミュージアム、職人インタビュー、「鏡師」とは、どのようなお仕事でしょうか。)
三種の神器に八咫鏡(やたのかがみ)があるが、それは伊勢神宮に納められている。
神棚には神鏡が飾られているものもある。
中島伊勢の伊勢は、受領名(ずりようめい)だと思われる。
鏡師の中でも、徳川御用達ほどの匠であれば、伊勢という受領名を名乗るのもうなずける。
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近年出版された北斎関連の書籍のほとんどは、「北斎の父は川村某氏」と紹介されているが、その論拠は示されていない。
北斎の父は川村某氏か中島伊勢か、それとも全く別の人か。
仮に「北斎の父は川村某氏」だとしても、川村某氏が何者なのか全く分からないので、北斎の幼少期がどうだったか想像ができない。
いずれにしても、北斎はややこしい人間関係を抱えながら、その中でひたすら絵を描いていたらしいことは察せられる。
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