アスファルトとブロック塀の隙間にもタンポポの花は咲く。

その努力に感心する。

 

種は落ちた所で芽を出し咲くべき季節に開花する。

 

花を咲かせるには、どんな状況でも種の努力はヒツヨウだ。

 

でも、運悪く落ちた所が川の中や道路の上だったりすると花を咲かせることは無理だ。

 

そんなことは言われなくても知っている。

 

「努力はヒツヨウだ。」は、当事者でないから言える言葉かもしれない。

 

川の中に落ちた種に向かって「努力はヒツヨウだよ。」とはとても言えない。

 

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才能の花が咲く土壌とはどういうものだろう。

 

黒田清輝の絵の変遷を題材にして考える。

 

19世紀後半でパリは大改造され、貴族文化から民衆文化へと変わっていった。

その土壌の中で、クロード・モネは印象派の画風を確立した。

(参考):(19世紀のパリの近代化と芸術家たちの対応、清水正和)

file:///C:/Users/noki/Downloads/035-07%20(3).pdf

 

貴族文化の中では、印象派は生れなかった。

 

黒田清輝は明治17年(1884)にフランスに留学し、印象派的な傑作を描いた。

 

黒田清輝は、「印象派のように明るい光を描く技法とアカデミックな主題を折衷した「外光派」と呼ばれる様式を牽引したフランス人画家ラファエル・コランに師事した。」

(東京富士美術館、草つむ女、作品詳細)。より

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=36

 

 

            (アトリエ、パリ時代1890年の作品)

 

生気あふれるタッチ。

無駄な描写がない。

 

 

 

             (草つむ女、パリ時代1892年の作品)

 

印象派風だけど、いまいち。

 

 

1893年に日本に帰国してみれば、印象派は当時の日本の文化風土(土壌)に合わなかった。

 

それに、黒田清輝を指導する先生もいなかった。

同じ志向をする仲間もいなかった。

自分ひとりが西欧の新しい様式の絵画を描いて見せなければならなかった。

 

             (舞子、1893年、重要文化財)

 

無駄な筆が多すぎる。

試行錯誤でごてごてした作品。

 

日本の土壌に何とか、折り合いをつけて描いた絵が、重要文化財の「湖畔」である。

 

 

            (帰国後の作品、1897年、「湖畔」、重要文化財)

 

モデルは当時芸者でのちに清輝の妻となった照子夫人といわれている。

顔は全体として、より西欧人に似せているように見える。

清輝は日本の女性よりも西欧の女性が好みだったように思われる。

青春時代にフランスにいたからかもしれない。

 

「アトリエ」や「草つむ女」、「舞子」と「湖畔」を比較すれば、「湖畔」は印象派から、さらに遠くなっている。

 

湖面はどう眺めても、水面には見えない、

遠くの木々、それに山の表現は水彩画あるいは水墨画に近い。

湖畔を感じるのは、浴衣の波模様だけというのは面白いけれど、なんだか浮世絵風の洒落みたい。

わずかに印象派の表現が見られるのは、人肌の部分である。

 

ネットでは、「湖畔」を傑作とする論評が目立つが、私は、「湖畔」を傑作とは評価していない。

清輝の絵の才能は、当時のフランスの土壌で花開いたが、日本では萎んでしまったと言わざるをえない。

 

黒田清輝は画家であることをあきらめ、後年は貴族院議員になった。

 

結局、黒田清輝は日本では民衆にはなれなかった。

 

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