高齢になれば、耳が遠くなったり、眼が見えずらくなったり、認知症になったりする。

自動車は運転できても、足も腰も悪くなり歩けなくなる。

やがて、その自動車も運転できなくなる。

 

高齢者になってから、障がいになった場合は、その他の能力も同時的に低下するために、補完する機能が働かない。

例えば、眼が見えなくなった時に、耳の機能がそれを補完するというようなことは起きない。

耳の機能も落ちているからである。

 

従って、高齢者が暮らしやすい社会とは、障がい者が暮らしやすい社会である。

 

眼の見えないライオンはすぐ死んでしまう。

 

人間の場合は、眼が見えなくとも、耳の機能を発達させた人を異能者として、社会を豊にした時代があったと想像を巡らす。

 

(今年の猛暑、よく頑張ったね)

狩猟採集時代、微細な音を聞き分けることができる人は、その社会で重宝されたに違いない。

森に深く踏み入れば、視界は木々にさえぎられる。

鳥が集まって実をついばんでいる音を聞き、方向が分かれば、木の実を採集している人を案内できる。

風にそよぐ葉の音と鹿の移動によって生ずる葉の音を聞き分ければ、狩人を案内できる。

人間は言葉によって、情報を伝えることができる。

目の見えない人は、音の情報を目の見える人に言葉によって伝えることで、群れの能力を拡張できた。

 

しかし、稲作が始まると、音の情報はそれほど重要ではなくなった。

眼の見えない人は、異能者から障がい者になった。

代わって、気圧に対し敏感な天気痛の情報は重宝されたと思う。

しかし、科学の発展により、天気予報が精度を高めると、天気痛は異能から病気の患者になった。

 

確たる証拠はない。しかし、可能性はあったと思う。

 

社会において、障がい者となるか異能者となるかは、社会の在り方に関係しているということである。

 

高齢になれば、昔も今も障がい者になるが、昔は祝われ、今日では珍しくもなく、お祝いは形ばかりとなる。

これも社会のあり様から来ている。

 

「誰でも遅かれ早かれ障がい者になる。」

 

「あんたら、覚悟しいや!」(新・極道の妻たち、岩下志麻)

 

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