6.まねる(6)捕まるの続きです。

 

 原始人たちに取り囲まれて、森の中を川上に向かって歩いた。

 だいぶ登って来ている。

 見下ろすと木々の間から川が見える。

 私は不安から腰が引けて、足が思うように前に出ない。

 捕まれている腕を振りほどこうとしたが、どうにもできなかった。

 彼らは何も話さない。

 やがて下り始める。

 森を出ると、そこは広い河原だった。

 川の対岸には草原が広がっていた。

 歩いた時間は15分程だろう。

 ハンモックのところから以外と近いところだと思った。

 森の木々に隠されて、この河原は見えなかったのだ。

 

                     (こんな感じで河原に連れてこられた。)

 

 河原には10人くらいの私と同じような体毛の原始人が待っていた。

 全員、成人の男性だった。

 

 ここに連れてきた原始人は捕まえていた私の腕を離した。

 

 私は不安を感じていたが、河原で待っていた彼らに敵意は見えなかった。

 ここから、逃げ切ることは不可能だと思えた。

 

 私は何の敵意も持っていないことを示すために、微笑んだ。

 正確に言えば、微笑もうとした。

 

 こちらに来てから鏡を見ていないので、私は自分の顔がどんなふうになっているのか見当がつかなかった。

 

 これまで、見ていた鏡に映った顔とはかなり違うだろう。

 

 どうして人間は毎日何回も鏡を見るのだろう。

 鏡だけではない、ショウウィンドウに映る自分の姿さえ見てしまう。

 

 人間以外の動物は自分の容貌を気にしているのだろうか?

 スズメが容貌を気にしているとは思えない。

 鏡を見ない動物は自分の顔が美人か美男かなんて気にしないと思う。

 

 人間だけが、自分の容貌や他人の容貌を気にしているように見える。

 どの動物も気にしているのは(表情)だと思う

 

 もし、人間が鏡のない国に住んでいたら、自分の顔をこれまで見た中で一番気に入った顔に似ていると思っていると思う。

 

 河原で待機していたリーダーらしき1人が一歩前に出ながら何か言った。

 

 微笑んでいるように見えた。

 

 しかし、本当に心から微笑んでいるかどうかは、目に浮かぶものを注意深く見なければわからない。

 「目は口ほどにものを言う。」とか「目の色を変えて怒る。」とか「目が笑っていない。」とか言う。

 

 欧米では「マスクをすると表情が分からない。」という人もいるが、サングラスで眼を隠された方がよほどわかりにくいと思う。

 

 日本人の話し方はあまり抑揚がない。平板な感じがする。

 極端に言えば、腹話術師みたいに口をあまり大きく開かない。

 欧米人の話し方は強弱のアクセントが強く、口の動きがはっきり見える。

 欧米人がマスクを嫌うのは、マスクをすると言いたいことがよく伝わらないと思っているからではないだろうか。

 それに、ハグやキスに不都合なせいではないだろうか。

 

 私の前に立つリーダーの目には優しさが浮かんでいた。

 

 微笑みは相手をなごませる力がある。

 人間の赤ちゃんは巧みに微笑み戦略を用いる。

 

 (参考、(まねが育むヒトの心、明和政子、岩波ジュニア新書、2012年11月20日発行、岩波書店、66頁、67頁)

 「生まれたばかりの赤ちゃんは、泣くだけの存在ではありません。

 時折、微笑んでいるような表情を見せます。これは「新生児微笑」とよばれる現象です。新生児微笑は、気持ちよくまどろんだ状態のときによくみられますが、物音や振動などを感じたときにも誘発されます。

 新生児に天使のような微笑みを向けられると、私たちは思わず微笑みを返してしまいますが、残念ながら新生児微笑は目の前にいる誰かに向けられたものではありません。ただ、口元がきゅっと上にひき上げられ、まるで笑っているかのように「見える」だけなのです。その証拠に、目の前に誰もいなくても、目を閉じていても、新生児微笑は起きます。

 新生児微笑は、ヒトだけに見られる現象ではないことが、最近の研究からわかってきました。チンパンジーやニホンザルの新生児も、生後まもない時期に微笑に似た表情をみせるのです。

 興味深いことに、新生児微笑は期間限定の現象です。ヒトの場合、生後一カ月を過ぎる頃から新生児微笑はしだいに見られなくなり、生後二カ月目には消えてしまいます。その時期と前後して、今度は他者が目の前にいる場面、コミュニケーション場面に限定して起こる微笑、「社会的微笑」が出現します。新生児微笑の消失、そして社会的微笑へといたる道すじは、チンパンジーでも同様に確認されています。チンパンジーの新生児微笑も生後二カ月頃より見られなくなり、その時期以降、社会的微笑が現れ始めます。(太字:筆者)しかし、ニホンザルでは、微笑みの表情を介して他者とコミュニケーションすることはありません。」

 

 (参考、(1冊で分かる、感情、ディラン・エバンス、訳者、遠藤利彦、2005年12月22日発行、岩波書店、9頁、10頁)

 「意思疎通というものは言葉がなくても可能である。そしてこれはかなりのところ、私たち皆が共有する基本情動のおかげである。文化人類学者たちが、それまで隔絶されていたある部族と初めて接触するとき、彼らとの意思疎通の唯一の手段は顔の表情と身体のジェスチャーを通したものということになるが、それらの多くは情動を表出するのに特別にデザインされているものなのである。文化人類学者たちは微笑むだろう。その表出は、隔絶された部族民にすぐさま認識されるはずである。今度はそのお返しにその部族民が微笑むだろう。そして、それは文化人類学者たちに、その部族民が彼らと同じ情感を有していることを教えてくれることになるはずである。」

 

 私は気持ちをリラックスさせて精一杯優しさを表情に浮かべて微笑もうと努めた。

 それしか、私にはとるべき方法がなかった。

 

 リーダーは「オコーアー、ムゥーゥーム、タ~アータ」と節を付けて言った。 (こんにちは、手荒なまねをして済まなかった。)

 私を連れてきた原始人たちも合唱するように、「オコーアー、ムゥーゥーム」と節を付けて言った。

 

 私には彼らの言うことが理解できなかった。

 

 続けてリーダーは「ウァーウ、クークー、レーレ。*」(あなたは、どこから来たのか?)と言った。

 

 *本論を書いていて、真面目に「ウァーウ、クークー、レーレ。」と原始人の言葉を考えていることが、おかしくて笑ってしまった。

 

 リーダーはもう一度繰り返したが、私は黙って首をかしげるしかなかった。

 私が彼の言葉を理解できないと思ったようだ。

 

 リーダーは自分の胸を指して「ウガーヤ、ウガーヤ。」と言った。そして、その指で私の胸を指差した。

 

 私は、「ウガーヤ」がリーダーの名前だと思った。

 私は自分の胸を指して「トンボ、トンボ。」と言った。そして、その指で彼の胸を指差して「ウガーヤ」と言った。

 

 ウガーヤは「人に名前を聞く時は、まず自分の名前を名乗ってから」という礼儀を知っていると思った。

 

 ウガーヤは自分の胸を指して「ウガーヤ。」、次に私の胸を指して「トンボ」と言って微笑んだ。

 私も(まね)をして、自分の胸を指して「トンボ」、次に彼の胸を指して「ウガーヤ。」と言って微笑んだ。

 

 すると、河原にいた全員が「トンボ、トンボ」「トンボ、トンボ」と言って笑った。

 

 (まね)をするということは(群れ)ようとしているということである。

 だから、私の(まね)る行為は、彼らと敵対する気持ちはないことを表明しているようなものだ。

 

 ウガーヤは森に向かって手を上げて合図した。

 すると森から大勢の原子人がぞろぞろと出てきた。

 男、女、老人、子供、赤ちゃんを抱いた母親など総勢100人以上はいると思われた。

 

 興味深そうにこちらを見ていたが、姿勢は好き勝手で正面を向く者、座る者、横を向く者がガヤガヤと話しながらそこにいた。

 

             (京名所図、六曲屏風一双の部分、作者不明)

 

  (このワイワイ感がいい感じ。)

 

 ウガーヤが再び手を上げると静かになった。

 

 ウガーヤは皆を前に私を指差して「トンボ」と紹介した。

 皆「トンボー、トンボー、トンボー」と語尾を伸ばして合唱した。

 

 ウガーヤは皆に節を付けて歌うように何かを説明していたが私には全く理解できなかった。

 

 ナゼ、彼らは私を連れてきたのだろうか?

 私は彼らを害する力もないし、よそ者だし獣に襲われて食べられても何の問題もないハズだ。

 一人ぼっちの私を憐れんだのだろうか?

 それとも私を食べるためだろうか?

 でも食べるためならとっくに殺しているハズだ。

 

 ウガーヤは話し終わると手を上げて、森の方に振った。

 皆はまたゾロゾロと森に帰っていった。

 

 ウガーヤは1人の青年を私のところへ連れてきて、彼の胸を指差して「タンタ」と言った。

 

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

                                      

 8.まねる(8)に続きます。