5.    目の前の赤い筒が何であるか了解している

 ふと、目に入った赤い筒が何であるかを見た時に既に了解している。

赤い筒を見ながら、一体この筒はなんだろうと考え込むことはしない。

見た途端にそれが消火器であることを了解している。了解している内容が実際に目に見えているわけではない。

了解が見えないのは、了解が目に映っていないからだ。

赤い筒は自分の目で見ていると(意識)されているし、それが消火器であるという了解は心の中にあると意識されている。

 

6.    見えているものは赤い筒であると意識されている

意識するのは心なのだから、見えている赤い筒が(意識)されているということは、見えている赤い筒の像は心の中にあるということである。

見えている赤い筒の像も、それが消火器であるという了解も、同じく自分の心の中にある。

同じ心の中にある、見えている赤い筒の像と、それが何であるかの了解とでは、質が異なっているように思われる。

少なくとも、赤い筒の像と消火器であるという了解は心の中の異なる(層)にあるように思われる。