これより先は、兄と回想しつつ母が息を引き取るまでについてお話します。

なかなかの長文となるのですが、お付き合い頂ければ幸いです。


母は最後のブログアップ後より、家での生活を目標に、体調に波がありながらも、ベッドから起き上がって座る練習や、車椅子に移る練習などのリハビリを開始しました。


練習後に疲れから体調が悪くなる事も多く、辛い思いをしながらも母は笑顔で前向きに頑張っていました。家族も母が家で安心して過ごせるように、介護ベッドや車椅子等の設備を整える準備を開始していました。

親族や友人もお見舞いに駆けつけてくれ、母はとても嬉しそうでした。「忙しいのに来てくれてありがとう」といつも微笑んでいました。


しかし、8月に入り母の体調が悪化してリハビリを行う事が難しくなりました。

母も比較的体調の良い状態で家に帰る事を目標としていたため、「家に帰る事は難しいね」と寂しそうな表情を見せましたが、私達は「また良くなるよ。」と励ますしかありませんでした。


以前から母の最後の願いは「苦しむ事なく逝きたい」という事でした。

母はその時が来たことを感じ、私達家族を全員呼んでから鎮静剤(点滴)の使用をお願いしました。


この薬を使うことの意味というのは、苦痛を取り除くと共に本人の意識も朦朧とさせてしまうことです。もう普通の会話が出来なくなってしまうかもしれないと思うと悲しかったのですが、母の最後の願いを叶えてあげる事を決めていたため、私達はその場で了承しました。


そして、その薬の開始が811()の夕方より開始されました。母の呼吸が辛くなり、母が自ら薬の投与をすぐに開始して欲しいと希望したためです。

また、この時までに飲んでいた薬により辛い副作用が出ていたため、治療の為の薬も一切使用を辞めました。


病気は進行していくだろうその時は、父・兄・私の家族全員が揃っていて、一緒に薬の投与の開始を見守っていました。母は「長い間、私の好きなように治療させてくれてありがとうね」と微笑んでくれました。


それまで父が母の傍で看病し、そのまま母の病室で寝泊まりをしていたのですが、それからは父と兄の2人で順番に寝泊まりし、2人で母の事を見ていました。

私は女という事もあり、夜は家に帰って家で愛犬と過ごし、朝早くに家の最低限の事のみ行ってから病院に行くという生活をしていました。その中で私も仕事の休みを取り、母が息を引き取るまでは、母を含め家族4人で朝から晩までずっと一緒の時間を過ごしていました。


ここまで、4人でいる時間を持てたのは10年以上ぶりなのではないでしょうか。

私達は、この日々がいつまでも続くような錯覚すら覚えました。


薬は徐々に効いてくるので、投与日から2日間くらいは母と話す事が出来ました。

その間に、家族それぞれが後悔のないよう、母に感謝の思いを伝え、母と会話をして時間を共にしました。

私は、始め父や兄のようにその場で思いを伝える事が出来なかったのですが、母と2人になった時に感謝の気持ちを全て伝えました。母は常に私の心身の心配をしてくれていました。母はいつも仕事で深夜に帰って来る私を待っていてくれ、私が帰宅すると急いで自分の部屋から降りてきて笑顔で「おかえり」と言って温かい食事の準備をしてくれました。


この事は、今でも思い出すと涙が止まりません。兄と反対で、妹の私は反抗期の時に母を深く傷付けたり、大人になってからも母との喧嘩が多く、母には心配ばかりかけていたと思います。しかし、そんな素直になれない私をいつも見放さず、温かく見守ってきてくれた母に深く感謝しています。




―――最後の願い(2)へ続きます。―――