母の遺影は、家族で写真を探して話し合った結果、一番最近の写真を選びました。


周囲が知っている、母が病気になる前の姿か、1番最近の元気そうな姿の写真の2種類で非常に迷いましたが、後者の方が幸せそうに笑っているという事で、後者の写真になったのです。


家族の前で見せてくれた最高の笑顔なのではないかと思います。せっかくなので、遺影に使用した写真をブログにも載せます。


…皆さんから見た母はいかがでしょうか。私たち家族は、母のこの笑顔がどの表情よりも1番大好きです。




この「最後の願い(4)」記事を持ちまして、ちぃの「健康日和♪ ~明るくいくぞ!(^^)~(肉腫) 」にピリオドを打ちたいと思います。最後に、家族から母への言葉を添えて…。
















母さん、今まで本当にありがとう。

変な言葉になるけれど、感謝し尽くせない程に感謝しています。

母さんは自分がいない事で家族の事を心配しているかもしれませんが、

これから私たちはしっかり前を向いて頑張ります。


母さんが最後に言った「お兄ちゃんもあなたも、立派に成長したから大丈夫だよ」という言葉を信じて、母さんの分まで頑張ります。だから、母さんも安心して下さい。



これまで本当によく頑張ったね。やっと落ち着けたんだね。

いつも「おかえり」と言って迎えてくれた母さんへ、

今度は愛犬含め家族一同より…



「おかえり」





















同日の夜中に自宅へ帰って来て、リビングに敷いた母の布団に横たえた時には、母の表情が安心したように見えました。穏やかな表情に加え、口元が笑っているように見えたのです。「やっと帰れた。ただいま。」と言っているようでした。

窓のカーテンを引くと、リビングの前に設置したテラスには愛犬がおり、帰宅してから葬儀屋さんと家族が葬式等の話をしている時に、ずっと母の傍に寄り添うようにして眠っていました。

愛犬は、母が623日に入院してからは一度も母と会えていなかったので、

「母ちゃん、おかえり。遅かったな!やっと会えた!」と言っていたのではないでしょうか。

母は意識があるギリギリまで、見舞いに来てくれた人に「ありがとう」、何かしてあげるごとに「ありがとう」と呼吸が苦しいのに、一生懸命声を出してお礼を言っていました。



母は、常に自分よりも相手の事を気遣ってくれる、笑顔の絶えない太陽のような人でした。



母の見舞いや線香をあげに来る人は決まって、「ちぃちゃんのお見舞いに行くと、元気づけるために来たのに、逆にちぃちゃんの人柄と笑顔で私が励まされた」と言ってくれました。


病気になって抗癌剤の投与を開始して髪が抜けた時も、癌の再発や転移が発見された時も、治療で心身共にボロボロになった時も、病院の担当医に心ない言葉を投げられ傷付いた時も、いつも周りに迷惑をかけまいと1人で泣いていたのでしょう。


母は、なかなか誰にも弱音を吐かずに、笑顔で前向きに行こうと本当に頑張っていたと思います。

最期の薬を投与し始めてから、母の妹に言われたのですが、最期の緩和のための薬の投与が始まり、寝たきりから来る体の痛みを家族には隠さず訴えかけてくれた事。「遠慮せずにそうやってどこが痛いとか、どうして欲しいとかを言えるのは、家族に安心して頼んでいる証拠なんじゃないかな。最期に安心して家族に甘えられたんじゃないかな」と。それを聞いて、とても嬉しく思いました。


母は、誰から見ても綺麗な顔で、そして母の希望通りに逝く事が出来たのではないかと思います。


今思えば、入院してから約2ヵ月間、母は涙で目をにじませる事はあったものの、最後を迎えるまで一度も涙を流しませんでした。無念さはあったものの、本心で「良い人生だった」と感じていたのではないかと感じています。


これまでの母の言葉の中で、特に心に印象的なものがあります。

「前にあるお医者さんに聞いた話なんだけれど、癌っていうのは治りにくいのは確かだけれど、時間をくれるんだって。だから、その時間でやり残した事をしたり、大切な人と話をしたり、残りの人生を考えたり出来るんだって」


私からすると、母はそのお医者さんの話を聞いてから、改めて繰り返される毎日を大切にし、今まで以上に前向きに楽しく過ごしていたように感じました。

そのせいか、母のここ数年の笑顔は本当に輝いていました。



―――最後の願い(4)へ続きます。―――





















































母は、笑顔で「悲しまなくて良いんだよ。やれるだけ色々やって満足してるよ」と言ってくれました。


段々薬が効いてくると眠っている事が多く、たまに目を覚ますのですが、それは水を飲みたいか、寝返りを自力ではうてずに腰や背中が痛むからでした。

目を覚ます度に苦しそうな母に、家族や叔母と共に姿勢を変えさせたりしていたのですが、次第に水を口から飲む事すら出来なくなりました。


母のたまに苦しむ姿を見ていた私たち家族は、段々と「これでは母の“苦しまずに逝きたい”という最後の願い通りになっていないのではないか」と辛くなってきたのです。

そこで、母の希望通りにしてあげたいという思いから、薬をさらに強めてもらう事で母の苦痛な時間を終わらせてもらうことにしました。


そのおかげで、母は目を覚ます事はなくなりましたが、同時に穏やかな表情になりました。本人からの意思表示は一切無くなりましたが、姿勢を変えさせる等は続け、交代で母の手を握り、ただ母を見つめて一緒の時間を過ごしていました。

本人が感じていないだけで本当は体は悲鳴上げているんだろうな、と考えると辛くてしょうがなかったです。


また、眠っている母は意識がないので、目を覚ましたり手を握り返したりといった直接的な反応はないのですが、家族や親戚が話しかけると、体に繋いでいる色々な測定器具の数値が上昇して安定したりと、母は意識がなくてもそのように何かしらの反応をしてくれました。


その時が来たのは、始めに書いた814()2246分から約15分程前でした。


その時まではこれまで通り、母との時間を家族と叔母と過ごしていたのですが、叔母が帰ってからの時間を家族4人で過ごしていました。

母の容体が少し安定している状態だったので、私は兄に家まで車で送ってもらう(家と病院は車で5分程の距離です)ため、兄と共に母の病室を離れました。


病室を離れる時に、兄が私に「もしかしたら、お前は母さんと会うのはこれが最後になるかもしれないけれど、もしもの事があっても後悔しない別れをしたの?」と言いました。

兄は母とずっと一緒にいて、その日は何かを感じたようです。


そして、自宅に着いて5分程で父より兄へ電話が入ったため、急いで2人で車に飛び乗り、再び母の病室に戻りました。病室まではとても長く感じました。「お願いだから間に合って」という強い思いで、兄と共に消灯後の病院内を全力疾走しました。



兄と私が病室に到着すると、母は3人に見守られながら息を引き取りました。


父も言っていましたが、母は息を引き取る寸前まで、私と兄が来るのを一生懸命待っていてくれたのだと思います。母の目尻から涙が一筋伝っていました。

始めにも書いた通り、母の最後はとても穏やかな表情をしていました。




―――最後の願い(3)へ続きます。―――