【ミヒャエルと一緒に冒険に行く】 第二十四話   メフィスト | 佐藤シューちひろ

佐藤シューちひろ

意識の世界が見えてくると、日常の世界がすっかり変わってしまう。
見えない存在たちとの破天荒なコンタクト。
ブログ・シリーズ「夢の冒険記」「ミヒャエルと一緒に冒険に行く」「ニシキトベ物語」


メフィスト
2007年、黒土、焼締



ある冬の夜だった。

私はベッドの上に座って、ノートを膝の上に抱えて書きものをしていたところだった。

すると突然、パキッ……という音が、宙からしたのだ。

乾き切った木が折れるような音だ。反射的にゾーッと背筋が寒くなった。

……嫌な音だ……。まるで骨が軽々とへし折られるような……!

……何が来ている……!?

私は音がした方へ意識を向けた。

すると、一人の恐ろしげな男の姿が意識の中に映った。髪をボウボウとさせ、大きな目をカッと見開いている男の姿が……。

……メフィストだ……!

とっさにそう思い、恐ろしさに身が凍りついた。頭の皮膚がゾワゾワして、髪の毛が逆立つのがわかる……。

……メフィストが悪い存在でないのは知っているけれど……。

🌿🌿🌿

メフィストなら、前に会ったことがあった。
ちょうど一年くらい前のこと、私がまだフェリックスと一緒だった時のことだ。

ある時、フェリックスが家のピアノでバッハの平均律を弾いていた。

彼はなかなかの弾き手だった。とりわけ、ポリフォニーを見事に弾き分ける。

いくつもある音のラインが交差し、絡み合っていく……。

それが複雑な建造物を織り上げていくのを、フェリックスは黙々として描き出していく。

平均律の多声構造。それは、宇宙規模で繰り広げられる、光と闇のドラマそのもののようだ。

……バッハは見ていたんだろうか、このイメージを……?

あれは、どの調の平均律だったろう? 残念ながら覚えていない。

私の脳は、聴覚から来る情報を処理するのがひどく苦手なのだ。音楽は私の脳の中でイメージに置き換えられてしまう。聴覚的な情報としては、主要なメロディさえも、私の記憶の中には残らない……。

ただ、線や色や、イメージや映像だけが、美しく記憶の中に残っていく。

私はあの時、フェリックスが弾くバッハの平均律を聞きながら、壮大な宇宙のイメージを見ていた。宇宙の中を、ミヒャエルとメフィストがゆっくりと回転しているのを。

大きな宇宙の中、ミヒャエルが上、メフィストが下にいて……。

それから二人は、大きく円を描いて回転していく。

ミヒャエルは左から下へゆっくりと回っていく。メフィストは右から上へ……。

今度はメフィストが上、ミヒャエルが下。

そしてまた、ぐるりと回っていく。今度はミヒャエルが上、メフィストが下……。

そうやって、メフィストとミヒャエルは、宇宙の中を回転し続けていた。

……これがメフィストなのか……。

私はメフィストの表情の美しさに見惚れていた。

メフィストは眉間に深いしわを寄せ、哲学的な思考にふけっているかのようだ。

……何て純粋な顔だろう……。

否定的精神、とゲーテはメフィストのことを書いた。人間の愚かさを否定し続けるネガティブな魂だと……。

でも私には、それは否定的な精神というものには思えなかった。
メフィストの美しい顔は、人間に対するとても深い愛を表しているようだったから……。

批判的な精神ではあるかもしれない……。
でも、そこには憎悪とか攻撃性とか高慢さとか、そういう感情はみじんも感じられなかった。

そこにあるのは、ただ深く純粋な愛だけだ。

メフィストとミヒャエルは、上になったり下になったりしながら、つねに同じ軸の両極にあって、宇宙の中をぐるぐると回転し続けていた。

……バッハはこれを見たんだろうか……?

きっと見たのに違いない……。

……これはバッハが受け取った宇宙のエネルギー。彼が音楽にした宇宙の図なんだ……。

🌿🌿🌿

それから一年ほど経って、一人で夜をすごしている私のところに、メフィストが姿を現したのだ。

目の前に見るメフィストの顔は恐ろしかった。

邪悪な顔ではない。が、強大な力を感じさせる……。

「君が望むなら、こいつは解放してやる」

メフィストはそう言うと、脇に抱えていたものを、じゃがいも袋のようにドサリと床に放り出した。

……これはペーターじゃないか……!

床に転がったものを見て、私は驚いた。それは、ボロ布にくるまったペーターの姿だったのだ。

……メフィスト、この頃ペーターを苦しめていたな……。

「こいつは解放してやる。その代わりあんたを取る」

メフィストはそう言うと、私の方に手を伸ばしたのだ。

爪の長い、大きな手が私につかみかかろうとしている。私は身をかわそうとした。だが、その瞬間思い直した。

……無駄だ。そんなことで、メフィストから逃げられるわけもない……!

メフィストは悪魔なのだ。さまよえる霊の類とは違う。

彼はミヒャエルたちと同様に、宇宙的な存在。時空を超えて、天でも地でもどこへでも出入りすることができるのだ。

逃げたって、逃げ切れるわけはない……。

……さあ、どうしよう……?

私は答えを探そうとして、瞬時に精神を集中させた。

……手強い相手にぶつかった時には……?

……この場合、逃げるのも抵抗するのも逆効果だ……。

……どのみち逃げ切れはせず、しまいに力が尽きるのが落ちだ……。

今までも苦い目にさんざん遭っていたから、私はもう知っている。
ポルターガイストに追いかけられて、背骨を痛めたこともある。彷徨える霊を解放しようとして、力が尽きかけたこともある。ましてや悪魔を相手にしたら……?

……無抵抗だ……。

……この場合、ただ一つ有効な手は、完全なる無抵抗……。

……自分の中の抵抗を解いて、完全に受け入れてしまうことだ……。

……私の中に抵抗さえなければ、どんな力も私を傷つけることはない。ただ通り過ぎていくだけなはず……。

数秒の間に、思考が意識の中をかけめぐった。そして、私は瞬時に心を決めた。

「いいわ。私、恐くないもの。メフィストは私の影を取ってくれるだけなのを、私は知っているんだから……」

そうメフィストに向かって言うと、身体の力を完全に抜いた。そして、恐怖心を信頼に取りかえて、身を委ねた。

メフィストは私をつかまえた……。

ところがその瞬間、メフィストの爪の長い、ごつごつした手が、私の頭をクリクリとなでていることに、私は気がついたのだ。

捕まえたのじゃない、彼は私を愛情深く抱きしめたのだ……。

「君は何てかわいい子なんだ!」

そう言って、メフィストは涙を流さんばかりだった。

メフィストは、私の信頼に痛く心を動かされたようだった。
私はあっけにとられていた。メフィストの身の暖かさが、身体に沁み入るようだった。

……こんな風に信頼されることなんか、彼には滅多にないことなんだろう……。

「さあ、君の残りの影を取ってあげようね……」

メフィストはそう言うと、長い爪で私の身体のあちこちを引っかき始めた。
それはくすぐられるみたいで、私は声を上げて笑い出さずにはいられなかった。

彼のエネルギーに包みこまれるのは、温泉に浸かる心地よさだった。
地熱の暖かさ……。
それは、じんわりと肌にしみこむような熱さだった。

そしてそれは、身体的に守られている感覚そのものだったのだ。

🌿🌿🌿

メフィストは、山羊脚をして山羊の角をつけているのだと言われている。それが悪魔なのだ、と。

山羊脚をして山羊の角をつけているのは、元々は悪魔ではない。これは大地の神。古代ギリシャの神サチュロスだ。

ヨーロッパでキリスト教会が権力を握ったとき、サチュロスは悪魔にされてしまったのだ。

大地の神。それは、物質的な肉体的な豊かさを与える神。
それが、人間を物質的な快楽に誘惑し、悪に引きずり込む存在だとされたのだ。

身体を持って生まれてくることで、人間は物質的な存在になる。生きることには、身体を持つことの快楽と苦痛とがつきまとう。

メフィストとは、それなのだ。物質的な次元に生きる力。身体を持ち、大地の上に重力を持った存在として生きる力。

物質、身体はうつろいゆくもの。物質的な存在として生きている人間は、失われること、破壊されることもまた経験する。

しかし、地上に生まれるということは、このうつろいやすさを受け入れることに他ならないのだ。
うつろいやすさが人間にとって恐ろしいものになったのは、メフィストが悪魔になった時からだったのかもしれない……。

🌿🌿🌿

「何でも求めていいんだ。望みなさい」

メフィストはそう言って、彼の富が自在に泉のように湧き、ありあまるほどなのを見せる。地面から植物がいくらでも生える。木々があり、果物があり、ありとある野菜があり、穀物が実る。さまざまな動物がいる……。

「皆、君たちのために供されたものだ。取りなさい。どれでも、いくらでも」

地中には、メフィストの丹精こめた宝がある。光輝く金属、金、 銀、白金、銅。きれいなもの、かたいもの、やわらかいもの……。

地中奥深く、鉱物が花のように果実のように色とりどりの透き通った結晶を実らせている。

ダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、 エメラルド。青の、赤の、紫の、琥珀色の……。

「美しい色だろう? 美しいものを求める心も満たされるべきだ。美しいものを手にする官能もちゃあんと供されている。どれでも好きなのを取って、好きなようにしなさい。どれでも、いくらでも」

地上には、酒宴を開いて陽気に騒ぐ人々がいる。肌を触れあって官能を楽しむ人々がいる。

「すべては与えられているんだ。好きなだけ、いくらでも。罪の意識を持たなければ、執着を持つこともない。素直な心を持って、いくらでも取りなさい」

メフィストは私の背中にぴったりと裸の胸を押しあてて抱きしめる。その暖かさが身体のすみずみまで広がって身をほぐすのを、私は感じている。そして、心が安心しきっている子供のように、柔らかくなって笑い出すのを。

失う不安を持たなければ、貪欲にとらわれることもない。失う不安にとらわれるならば、メフィストのさし出す富の世界は、地獄にもなるだろう。



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メフォスト
2008年、赤土、焼き締め