来るべき対立がいよいよ顕在化したといった感じでしょうか。

 

2月22日は、TVからはロシアのウクライナ東部侵攻予想、竹島の日、スーパー猫の日など色々取り上げられた一日でした。

 

90年代、英国の大学・大学院で国際政治を研究してる際、

2回ほどベルギーに本部を置くNATOで

集団安全保障についての研修に参加したことがあります。

 

当時は、現在と異なりベルリンの壁崩壊後、

「融和」「多様性」がヨーロッパの空気を支配しており、

NATOも冷戦後の存在意義を失い

場合によっては「解体」されるのではないか

という声もあったほどです。

 

しかし、現実は旧東欧諸国や

バルト諸国までもNATOに加盟しました。

行き過ぎた東欧拡大は、

いつの日かロシアとの衝突を招くのではないか?

という懸念の声もありましたが、

西側諸国は、当時国力を失っていたロシアのことを

軽視していた傾向がありました。

 

ロシアにしてみれば、

かつての同盟国だった東欧はEUやNATOに取り込まれ、

その上、自分たちと同じソ連だったウクライナが

西側に取り込まれては安全保障上「やばい!」となるのは

自明でしょう。

また、そこに、ウクライナの国内問題や

地域紛争という課題が絡み合っているので

問題を一層複雑化させています。

 

そうは言っても、21世紀の今日ですら、

今回のロシアのような強大な軍事力を背景に

隣国の主権を犯し、「平和」を脅かすような国家が存在することは、悲しいかな国際紛争の現実であることは間違いありません。

 

本ブログでも何度か書いていますが、

自分の専門が国際紛争や戦争だったこともあり

旧ユーゴには何度か足を運びフィールドワークを行ってきました。

国の指導的立場にいる人物から、

街の酒場で飲んでる人たちまで色んな方と出会いました。

若い自分が感じたことは、

日本人には日常になっている「平和」を維持することは、

とてつもなく大変であることと

「モノには複数の見方がある」という点でした。

 

旧ユーゴでは、

砲撃や銃撃戦で破壊された家屋に住み続けていた家族に

取材したことがあります。

「小さい子どももいるのに、

なぜこの土地から離れずに済んでいるのか?

安全な場所に行かないのか?」と。

 

返ってきた言葉は、「ここは自分たちの育った場所。

自分達の手で復興させたい。

その後に、子どもたちには平和を築いて貰いたい」でした。

複雑な思いでしたが、

「平和というのは、与えられるものではなく

自分たちで積み重ねていくものなんだな」と思いました。

 

正直、ウクライナ問題を取り上げて

「日本も近いうちにそうなる!」と

煽るようなことはやりたくないのですが、

今日のウクライナを見ると、

私たちがあたり前に甘受している「平和」が

いかに脆弱なものであるか考えさせられます。

 

昨今、我が国を取り巻く安全保障の環境が、

隣国にじわりじわりと犯されていることも周知の事実です。

次の世代に「平和」を積み重ねるためには、

ただそれを唱えるだけでなく、

日本人には苦手かも知れませんが

安全保障の議論を真正面から行い、

具体的に「備える」ことが大事であると改めて考えさせられます。