古典に関する文章 | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

古典の条件 (市川 裕 東京大学・大学院人文社会系研究科教授)

1、古代のある時代までに作られて完成された思想がその中に語られている。

2、そのテキストの価値を皆が共有している。解釈の歴史さえも共有している。

3、そのテキストを導く人が必要で、学問が伝達されるための組織的体制も必要。

プラス俺

時を越えた膨大な人数の参加。

先輩も参考書も豊富。

奇手・裏技なども飲み込みながら進軍。

昔の亜流も本流に結合。

世阿弥的な綴錦。

などなど古典の凄さは枚挙に暇がない。

 

Q、

受験科目に当たるものは古代ギリシャから変わらない。

無数の参考書も存在し、先輩達の具体例も豊富だ。

さらにペース配分、戦略など総合的に頭を鍛える切っ掛けになる。

こんなにコストパフォーマンスの良いものってそうそう無いぜ。

A、

極私的な論としては、勉強は最大の参加人数を持つ競技である。

受験はすべての選手がエントリーできる大会である。

そこを勝ち抜いた人は才能・努力・継続・工夫が

客観的に証明された優秀な人である。

R、

受験勉強、家庭料理、ファッション、FPSって、

「世界各国」が「大人数」で「それぞれ勝手(色々な方法)」

で取り組んでいるから、物凄く力強いと思うんです。

RA、

層が厚いと「奇手」「裏ワザ」が出まくって、

その中から「基本」が編み出されるからね。

それぞれの勝手な方法が王道につながるって感じ。

R、

「先輩も平気で殺す」「初心者舐められず」

「オーソドックスはやっぱり凄い」「レジェンドに学ぼう」

「誰の爆弾も同じ爆弾」「相性出会いでガラッと変わる」

「結局バカはバカだった」「やれば出来る」

「妄想舐められず」「言い訳は言い訳」などが

平然と並列されている感じが震えるほど好きなんです。

 

イギリスは「エドマンド・バークよろしくコモンセンスの国でもあるが、エキセントリックを寿ぐ個人主義の国」でもある。「日本は集団主義の農耕民族の国でもあるが、八百万の神様の国」でもある。ただ「変人が五体満足で持続可能で主役の国」とは言えない。

ヨーロッパ大陸が生み出した「古典」は「変人が主役になれる五体満足で持続可能な枠組」である。ヨーロッパ大陸の文化が「大衆からの離脱を基本にした文化」と呼ばれるのも、その「古典性」にあったりする。ちなみに古典は誰でも参加可能であり、それが古典の命脈でもある。

私が「塾好き、クラシック音楽好き」なのも、それが「古典」だからである。塾の先生って変人ばかりだからねw でも一過性のものでは決してない。古代ギリシャからの伝統が受験勉強。クラシック音楽も同様。構成要素が根源的であると同時に、どこまでも前衛的である。

古典の弱点というのは、敷居が高いので多様性を維持できない点にある。20世紀フランスに集まった天才達はあらゆる所からあらゆる分野に出現したが、それは現象的に終わった。それだと高い敷居だけが残り、偏り痩せ細った五体不満足の集まりになってしまう。

私にとってグローバリズムの肝心は、それが「多様性を維持した古典たり得るか」と言う点にある。ゲームなら突破してくれるだろうと思う。

 

【古典】

「私が美しいと思う花を私も咲かせてみたいと思ってしまった」

「どの涙を見ても色はありませんが、涙を流す理由は千差万別なんでしょうね。涙のプロフィールを調べることができれば良いのですが。

いや、切りが無いので止めておいた方が良いかもしれません」

「古典を学ぶのは、自らを虚しくして古典に身を寄せたいと思うからです。自らを主張したいとは思いません」

「あるいは古典を前にして、自らの醜さを知る。そのために古典に直面したいのかもしれません。どのような醜さがそこに映るのか。

まあ、自分ということを言うなら、その時の醜さこそが自分なのかもしれませんね」

「自らを完璧に虚しくすることは出来ない。Bを学ぶと言っても、学ぶ方がAであればAにBを重ねるわけで完璧にBであることは出来ない。なので出来る限り、Bに即したいと言ったところでしょうか。逆に自分を出すと言いますが、自分自身流動的ですし、捉える力も限られていますし、自分と思っていたものが実は自分でなかったりするのかもしれません。その意味で自らを虚しくするというのも、我を主張するというのも、どちらも叶わぬ夢なのかもしれませんね。どちらも叶えることが出来ない非力な私ではあるのですが、私の一生は私の一生だとも思います。死んでの後があるかどうかなど私には分かりませんし、私の命が私だけのものかも定かではありませんが、私にも命を頂けている限り、私なりに精一杯生きてやろうとは思うわけです。ははは」

 

カトリックってのは大昔から国境を越えた「グローバリズム」にして「古典」である。なので国に利用されたり、国を利用したり、歓迎されたり、嫌がられたりもした。戦国時代にもキリシタン大名はいるが「越えんな!怖えな」と潰されたりもした。

古典ってのはその社会の上下関係を無視しして「歴史を越えて磨き抜かれたクラウド」の前に皆を一律に平伏させてしまう。それが国家社会や地域共同体にとって厄介なのだ。「神の名のもとに人は平等」ってやつよ。

 

古典と言う「神の種」があり、それは皆が摂取できる。「神×そいつ」で「何が出るかな何が出るかな」ってなもんで、そいつがどんな人間であろうと、古典に打ち込めばレジェンドレベルに行きついてしまう。

伝統や文化や歴史という上下関係、序列的な地べたをスッ飛ばし、いきなり天空への道を敷いてしまうのだ。奇人変人大歓迎。地域社会からすると、それが怖い。崩されるからね。でもそれってグローバリズムでしょ。ゲームでしょ。

古典とグローバリズムというのは事程左様に相性が良く、古典を元にした一視同仁の平等こそ望むところ。治安などはテクノロジーの発達に任せれば良いだろう。中国がその例を示してくれよう。

 

【型にも色々ある】
確かに「型があるからこそそれに対する反発」もあり「だからこそ型が必要なのだ」という意見も分かりますが、先ず「型にも色々ある」ということを意識すべきと思います。私は絶えず「お前の我儘が古典に直結することを祈る」という言い方で古典の大切さを説いておりますが、自分に合わないものを無理矢理学ぶより、自分の好きなものに親しんでいれば、そこから導かれるように自らが学ぶべき古典に出会うことが出来るのではないでしょうか。単語も文法も一つの型であり、赤子も言語の型を学び、自在に言葉を操れる人間へと成長するわけですが「言語にも色々あるように古典にも色々ある」わけです。その中には「君の好みや我儘を受け入れてくれる型や古典が必ずある」はずです。
【好きだからこそ古典に直結できる】
そして「好きこそ物の上手なれ」であってみれば嫌いなものを我慢して続けていても始まらない。「好きなものを好きなように学んでください。そのまま古典へと導かれ、あなたの存在が古典へ直結することを祈っています」と言う他ないのです。好きでやっていればこそ細かな違いにも複雑怪奇な因縁にも敏感になり、好きだからこそ続けられ挫けそうになっても頑張れるのではないでしょうか。そうなれば自然とライバルにもトレーニング方法にも目が行くようになり、学ぶべき型や仰ぐべき古典に出会うはずです。好きだからこそ感受性豊かに厳しいトレーニングを続けることが出来、必要な歩みを疎かにすることなく遥かな夢へ向って行くことが出来る。その意味でも好きこそが古典へ通じる道になり、古典にぶつかる気根になり、古典を消化する力になるのだと思います。

 

作品、自分が酔える酒を作ること。

勉強、自分の癖に居合うこと。

 

【オーダーメイドの世界を作れ。音楽家、こち亀】
五体満足の持続可能で幸福な世界。人間はカオスに耐えられない。そこで何らかの世界を作る。常識の良い点は「参加人数が多い」ところだが、欠点はまさに「非常識でないところ」だ。常識を打ち立てたところでこの世から非常識やカオスが消えてなくなるわけではない。現代のようにゲーム化する世界に於いて非常識の勢いはいよいよ強くなっている。今まで実現しにくかったものが簡単に実現可能になる。常識を寄る辺にしていると危険過ぎるのだ。自らの寄る辺が日毎に打ち倒されていく様を目の当たりにすることだろう。
さらに常識は一人用ではない。予め共有されており仲間もイジメの対象も見付けやすく「そんなことってあるよね」という共感も得やすい。しかし逆に一人用ではないために「オーダーメイド的フィット感が無い」。窮屈、ダボダボ、噛み合わない、ズレるなど息苦しさを感じることも多いだろう。うつ病やストレスもそこから来ている側面が強いんじゃないかな。
「こち亀」のように非常識を取り込みながら五体満足に持続可能な世界を自分で作ると、何が起きてもそれを消化できるし(言い過ぎなら軽く受け取って)、好みにフィッティングできるから気持ち良いよ。「カオス前提に、非常識を楽しみつつ、自分の世界は自分の世界で持続する」のと「常識に寄り掛かって、それが覆される度に、ヒステリーを起こす」のでは訳が違う。
「オーダーメイドの世界に生きている人なんて、常識の中で生きている人に比べたら不幸な個人主義者だ」なんて言ってられない。何度も言うように現代は常識破壊が簡単なゲーム社会になっているから。そもそも常識もカオスを前提にして作られた世界観だったはず。ところがいつか常識が当然になって非常識を消化できなくなってしまう。非常識を見付けては怒り、殴り、のた打ち回るヒステリー婆になってしまう。それはまるで「腫物」のようだ。誰も触ることができない。誰にも触ることができない。それでは転変する人生を楽しむことも糧にすることも出来ないよな。
常識や伝統を参考にしながらオーダーメイドの世界観を作った方が絶対に得だよ。「常識は脆弱である」だけでなく「オーダーメイド世界」も作りやすくなっているから。世界中から自分の好きなものを集めやすい世の中だろ。「好き得意親しみ」を練り上げて、お前の世界を作るんだ。そう考えるとやっぱり今って贅沢な世の中だよな。
ちなみに「古典」の素晴らしさってそう言うことでもあると思うの。と言うのは世界観として俺が言った条件(カオス前提で・非常識を楽しみ・五体満足で・持続可能)を兼ね備えている。そこからオーダーメイドの世界作りもできる。最も良い例は「クラシック音楽」かな。昔から今に至るまで続いており、最先端の音楽も簡単に取り入れる。雑音だって表現可能。カオスとの交流も凄まじい。一番凄いくらいじゃない?音楽が切っ掛けなら「自分の世界を作る」にも作りやすいと思うよ。種類も多いし、オーダーメイドな奴等同士で意見を交換しやすい。ミュージシャンは自分の曲を持ちつつ交流も活発だよな。常識に頼るのではなく、個人単位でカオスを前提にした持続可能な世界観を作って交流した方が絶対に気持ち良い!昔から言われている通り、カオスに揺す振られる世界では常識に縋る人も多くなるが、自分の世界観を作る人も多くなる。

 

受験勉強と言えば高校生。高校生と言えばハイティーン。ハイティーン×2000年の歴史を持つ古典。

これ嬉しからずや。

 

【古典が古臭いと思うなら】

断食すると皮膚の油を補うために内臓の奥の方に溜まった油が表面に出てくる。その油こそ自らを映し出す鏡だね。癖から何から含まれている。その誤魔化しようの無いものとどう対話するか。化粧で表は繕えても、〇〇コの匂いはそうはいかない。
豚の油も焼けば美味しいが、生では不味い。
臭いものでも組み合わせ次第で良い香りになる。
臭味を取り除くにも何故臭いのか分析し、除去方法について検討せねばならない。
臭味を利用するにしてもその臭味の何たるかを分析し、適格に使わねばならない。

お前は「癖、時代、環境」の塊でしかない。お前の中から臭味を浮上させろ。その臭味と居合うんだ。そんなお前を鏡にしなければ、臭味が抜け切ることはない。

PS 全ての存在は古臭い

 

【化粧で面は繕えても、和ゲーRPG】

「そんなの和ゲーRPGだ」と馬鹿にして来る奴への反論としては「和ゲーRPGでない君の和テイストはどこから来るの?私はそれに向き合った。その時はそれが結果として和ゲーRPGという形になったのだ。和ゲーRPG自体悪いものでないが、そのようにディスってるところを聞くと、君は和テイストに向き合っていないのでは?と疑ってしまうのですよ。だから君は君の嫌うような臭味から逃れられない。FFでもDQでも日本っぽいでしょ。その日本っぽい要素だけを抜き出すと、結果としてその要素を多分に持った素材を集めてみたくなることもある。そうすると伝統的な素材が数多く集まることもある。結果として所謂和ゲーRPGになることもある。それにしっかり向き合わないことには自分の中にある逃れることのできない要素をしっかり把握できない。自分の内臓の奥にある油を眼前に曝け出して、さてそれをどう調理するか。そこから始めないことには臭味は抜け切らないんですよ。化粧で面は繕えても〇〇コの匂いはそうはいかない。俺はよく手〇〇するから知ってるけど、〇〇コの匂いはそう簡単には落ちへんぞ。Never Disguise 〇〇コの匂い。Never Disguiser経由でない限り、聖地には辿り着かない」

 

「常識を、ぶっ壊そう」

「感想を、撒き散らせ」

PS 五感に振り回されたい

 

親不孝者には古典をものに出来ない。ところが出来た。
親孝行とは何か。実は親孝行していたのではないか。
「事の因果は複雑で、価値は相対的で」ということは、

まさに古典が我々に教えてくれる一大事である。
ところでそもそも古典というのは親の親のずっと親であり、

大祖先たる古典に親しんでいる時点で既にこの上なき親孝行である。

 

「ジメジメした古代的人間関係や世間様こそ日本の古典」であり、

その意味でこそ「古典の略奪は行われたのだ」と言うかも知れないが、

俺の知ったこっちゃない。

 

お前に古典を抜かれたくない。
そして真剣で荒事をされたくない。
じゃなくて、誰がどう使っても余計な御世話。
PS 玉鋼

 

「マティスに影響を受けた」って言ったら馬鹿にされたことがあったよ。

笑われたから、「自分なりにですけど」って付け足した。

ところで君は何に影響を受けたの?

日本語に影響を受けた?

身の程知らずな贅沢だね。

 

魚の本場って、魚の臭みの抜き方も洗練されてますよね。

古典ってのは「癖」と「癖の抜き方」の集大成。

鏡にして己を見極めろ。

 

イカに向かって、

「お前の泳ぎ方は魚と違うから海から出なさい」というのはひどい話で、

放っておけば、イカはイカらしく育っていくのである。

イカも悩んで大きくなった。

 

そういうこともある。

でもこういうこともある。

あっちのレジェンド、

こっちのレジェンド。

 

クラウド前提で芸を磨く。古典は全部そう。現代だったらゲームが最高。

シミソバカスまでの解体・そこからの集合を経ないものは全てダサく感じてしまう。

 

古典の素晴らしさの一つに、世間以外の「五体満足に呼吸する世界」を形成できる点が挙げられる、

と私は思っていて、これがあれば世間要らずなのである。

 

1、古今東西を並べて良い物をフラットに選んでいるだけ

2、各時代に人材が集まる場所が違って、才能と母数が多い場所(かな書なら平安貴族の物が至高、爬虫類最強は恐竜 強さにも色々あるが最大)

3、昔の人は動物的に感覚が研ぎ澄まされていた(魯山人「西暦1200年位までは人の心が素直なので虚飾がない」、京極為兼「昔の人にはけばれがない」)

4、大きな声で驚かせても注目は集めるが、心に響く感動の名作とは呼ばれない。刹那的刺激物ではない

5、粘土的にこちらの捏ね方でどうにでも化ける。古典の多面的な輝きは常に新鮮である。(魯山人「萬葉集は常に新鮮ではないか」)

 

古典と言うのは昔から続いているので、勉強方法も色々あるし、先輩も多種多様で「なんで私が東大に!?」「ラーメン屋をやっていたらエジプトのファラオになってしまった激レアさん」的な奇人変人のオンパレードである。

しかもその上、素晴らしいのは、それだけの勉強方法や先輩が用意されていても、誰も古典と同レベルになった人などいない(?)のである。成功例が無い以上(?)「絶対にこうしろ」なんて誰にも言えない。当たり前に登れる山なら、一般的な登山ルートから外れた者を馬鹿にできるが、登頂者ゼロの山なら、変なルートを行っている者を見ても「なんだあれ?新ルートか!?もしやあそこで一旦川に流されることでパワーを得るのでは?」とか謙虚な気持ちになれるし、新ルートが結局ダメでも「お互い様だよね。人生試行錯誤だよ」と寛容な気持ちで居られるわけだ。

 

ワインは色々な香りがするが、物としての完成度が高い。

なので「古典的」と言える。

古典をやっている奴からブッ飛んだ発想が出てくるのも、そこから説明がつく(?)。

色々な香りがする夢幻の世界を日夜体験しているからである。

「ワイン全体=Xエックス」であり、この度は特にカタツムリとゴボウとザクロがピックアップされたと。言ってみれば、此度の戦では総司令官にカタツムリ、副司令官にゴボウとザクロが任命されたようなものだ。「他に幾らでも人材はいるのに」だよ?

ワイン全体は無限であり、カタツムリゴボウザクロ以外の味や香りからすれば「おいおいあいつ等に任せられるのか?」「若造のくせに生意気な」「まあそう言うな。奴等も頑張っておる」「あいつらに命令される立場になるとはな」「お手並み拝見といきますか」などなど、そういうプレッシャーの中での総司令官としての出撃である。古典から発出されるとは、そう言うことである。

その責任を果たしてこその、此度の総司令部「カタツムリゴボウザクロ」なのであって、他を差し置いて、上に立つだけの結果を残せないならば、まあ、総スカンですわ。

古典をやっている奴は「あるものが色々なものに見える。突拍子もない組み合わせが当然である。圧倒的な完成度を突きつけられる」という世界を日夜体験しているので、「そこから生まれ出ずる発想もぶっ飛んでいるし、完成度が高くないとキレる」と言うお話でした。

 

・カメラで言うとマニュアル操作しまくれる

・歴史に名を残している偉人は全員変人?そんな人達と友達になれる。「こんな変人でも、いや変人こそ歴史に名を残せるんだ!」と励まされる。=自分の個性を貫く自信がつく。

・クラシックが本拠地で、ある意味そこで完結しているので、現実が性欲と食欲の掃き溜めになる。現実での不毛なやり取りに躍起にならない。余裕を持てる。

 

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伝統とは「何らかの価値観を共有する者の中で、有形、無形を問わず受け継がれ、未来に向けて受け渡してゆく意味や価値のある事象」

古典とは「過去に生まれた優れた表現や作品で、時を経ても、場所や言語が異なっても、受けとめた人間の胸に響き、明日の糧として昇華するもの」

グーグルAI

私の場合、先ず伝統とは「意味」と頭に浮かんだ。「人から人へ、主観、風土的、セット、意味が既定的、過去から現代と言う時間軸、文化的」

古典とは「科学的方法」と浮かんだ。天空にプカプカ浮いている。「客観的、意味を付与する、バラバラ、時空を超えている、文明的」

文化とは「時間と空間の中で実践される生活」

文明とは「超時空にある方法」

と言う意見もある。

「世代を超えて共通的価値観を持った人間達が作る世界観」と言うのは「一人で作ったのではない」重みがある。

ただ既定的過ぎて、田舎から脱出したい人間も大勢いる。

ただ故郷に戻ると、変わらない街並やしきたりに落ち着くとも言われる。

感覚だけではない「歴史的意味」もある。

AIによって「歴史、仲間、先祖、街も生成する」。まあ、実際にSFやゲームではある。

都会的自由を前提にしながら、「歴史ある国」を作る。

近代の宿命?アメリカ?「郊外化する現代」?

「古典的ではなく、伝統的作品を作れ」と言われた場合、「その作品だけで感覚を楽しませる」のではなく、「その作品を越えた意味」を念頭に置く割合がやはり強いか。

共同体で何故その行事をするのか食べるのか飾るのかなど。そこに込めた意味。その日は何をするのかなど作品を越えた繋がりや意味。

「古典的世界観」と言うのもあり、「作品を越えた意味は古典にもある」と言われた場合は、やはり「伝統」と言うだけあって「過去から今に伝わる時間軸」的なところを思うか。

「古典にもそれがある」と言われた場合は、そりゃもう「古典にも伝統があるんですよ」と返すか。

ところでもちろんフランスにも「伝統」はあるが、「古典≒文脈を無視した方法論が強い国はどこか?」と問うと、逆にフランスが際立つか。科学はイギリスが強いが、伝統の国でもある。理念的には「自由平等博愛」だしな。「個人主義」の国だし。

【感覚と理性が強い民族性と民俗性】

その根本には「感覚と理性」が強い「民族性・民俗性」と言うのがありそうだ。福田恆存が言っている通り「フランス哲学と言うのは心理学、認知学っぽい」。カメラは色を捉えるが、意味を捉えない。調音機は音を捉えるが、意味を捉えない。

【アーノンクール】

アーノンクールが「パリ音楽院の教育で、音楽から言語的意味が失われた」と言っていたが、私にはそれもフランス的宿命のように聞こえる。

フランス好きは「シューマンは悪い意味で文学的と馬鹿にする」傾向もある。ワーグナーのライトモチーフも然り。意味ではなく感覚を味わえと。

【感覚は意味も生成する?】

ただ五感は繋がっており、それは意味をも形成しそうだ。ある対象を五感で捉えた瞬間、感覚だけでなく、歴史的意味すら思ってしまう力が人間にはあるのかも知れない。その意味で「伝統的」な作品とは「五感繋がり&意味生成」をする?それこそ古いアルバムのように。初めて見たのにだよ?

【原風景】

それで言うと「原風景」と言うのも面白い。

原風景と言うのは、自分だけのものではなく、初めて見た人にも「懐かしさ」を誘う。棚田の夕焼けとかな。

あれを見た時に、人々の声や、歴史や、夕飯の匂いすら感じる。年中行事や意味すらな。

初めて見た原始人にもそう思わせるのでは?

【先天的な街や歴史的な感覚?】

街や歴史を形成したことのない原始人にさえ、街や歴史を思わせるなら、それはもはや人間の脳かどこかに、先天的に「街や歴史的なるものがある」と言う摩訶不思議な世界観になって来るが、まあ、あっても良いだろう。

 

まぁそもそも人間の好みなんて経験とか歴史によって形成されると言うからな。 母ちゃんの歌こそ世界一じゃないけど。100m走でウサインボルトに勝てる母ちゃんというのもいないけど。母ちゃんの走りこそ世界一!w それも愉快でいいけどなw

まぁでも高校野球とかってそうだよね。我が息子同士を戦わせるわけだから。もちろんそれは野球という物差があるから出る結果ではあるんだけどね。そしてそれは全ての競争がそうなのだけれど。

 

「ゲームの歴史」と言うと編年体と発展の整理などだろうか。

「ゲームの伝統」と言うとゲーム制作・ゲームプレイヤー・ゲームが盛んな社会などゲームを軸にした社会模様を総合的に思う。

「ゲームの古典」と言うと「ゲームの名作」だね。

 

俺の中では、伝統と言うと「過去から現在に伝わり続けている有機体」という印象なのかも。

〈有機体〉

1.それ自体に生活機能をそなえている組織体。他の物質系と区別して、生物のこと

2.多くの部分が緊密な連関をもちつつ統一された全体

 

西岡常一が「古いもの古いもの言うけど、古いだけならそこら辺の石ころでも眺めてりゃあ良い」と言っていた。俺はそれを聞いた時「それも良いねえ!」と思った。「砂も地球のかけらなんだと、いつかあなたが話してたね。そんな言葉を思い出すたび皮肉ね心救われるよ」

 

ところで伝統が育んできたものというのは、重みが違う。ところで私は和歌なら和歌だけを学び、平安貴族の生活全体とか時代状況に興味が無い(結果的に少し知っている程度)。まあ、性格ですなw

 

「和歌の歴史」と言うと、万葉集から古今新古今、玉葉風雅などなどの並びだろうか。

「和歌の伝統」と言うと、和歌を詠んできた人々の名前や冷泉家なども思う。新年の歌会とかな。和歌が続いてきた社会。

「和歌の古典」と言うと、もうこりゃ「万葉集・古今和歌集」だな。「新古今」でもうダメかも。

 

「伝統・古典」の分け方で連想するのは、

「時間的」と「空間的」

「文化的」と「文明的」

「生活的」と「方法的」

「意味的」と「イメージ的」

「感情的」と「感覚的」

「それ以外」と「それだけ」

「人的」と「物的」

「主観的」と「客観的」

 

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