教育「ゲームと受験勉強に習ひて14」 | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

A「出でよ神龍!そして願いを叶えたまえ!」

神「さあ願いを言え。どんな願いでも一つだけ叶えてやろう」

A「じゃあ、生クリームとイチゴジャムの組み合わせをベストマッチと認定して!ラズベリーでもブルーベリーでもなく、チョコでも無く、もうそれは好みでもなく、皆にとって絶対そうなの!」

神「その願い叶えてしんぜよう」

一年後

A「去年はイチゴだったんだけど、やっぱりラズベリーが良くなったから、今度は生クリームラズベリーを絶対にして。でもイチゴも絶対なの。どっちもベストマッチじゃないと嫌なの。人それを矛盾と言うとか言ってんな!」

神「その願い叶えてしんぜよう」

二年後

A「今度は生クリームチョコで」

神「その願い叶えてしんぜよう」

B「叶えんのかい!もう三つ巴やで。そして毎年君もよう集めるね。他の者はどうした?他の者よ」

百年後

A「今度は生クリームナマコで」

神「その願い叶えてしんぜよう」

B「ナマコて。生クリームナマコて。叶えすぎやで。叶えられへんと言わなあかんわ。『叶えられへんよ!それは叶えられへんよ!』。もう世界は滅茶滅茶なっとるからね。年一の君らのやり取りで。好みを超越した100種同率首位て。派生効果も含め、世界は今。味だけでなく五感イッテもうてるから。イッテもうた社会になりました」

 

「目的のために手段がある」で、俺もそちら側の思考が強いが、殊、古典を学ぶにあたっては「手段や作法自体に埋没し習慣化、無意識化する」ことも大切である。やはりネイティブの流暢さというのはあるのであって、それは親しみを持ち、浸透させ、全ての過程(?)を楽しむことでもたらされるのであろう。

確かに埋没してばかりでもダメで、「科学者のように分析する」「観光客のように地元を見る」ことで、思わぬ繋がりを発見し、合理化も出来ようが、ならば普段取っている手段自体の気付かなかった凄みも省みるべきだろう。

確かに他所者 若者 馬鹿者が世界を変えて行く刺激をもたらすのではあるが、その刺激を得たなら「普段手段に過ぎない」と足蹴にしていた中に「今まで思っていた以上の潜在力(無限?)があり、それを身に沁み込ませるには天真爛漫に刻一刻を楽しまねばダメだ」という視点も得られるはずだ。

そうは言っても「やはり合理化・新たな視点と言うのも必要で~~」と議論は延々と尽きないが、少なくとも両方の視点が欲しいものである。古典や伝統に身を浸していない者の下品さというのは「単純な合理化」から来ることが多い。合理と言っても理屈は奥深く多様なのである。

そもそも「俺は合理的に生きている」と言う人も、「単純な意味でさえ、そこまで合理的に生きていない」はずなのだ。習慣に則って生きているに過ぎない。それに対して「自分の思い入れのある物に対しては合理的に生きている」と言うかも知れないが、それも「そうは問屋が卸さない」であろう。

思い入れのある特定の目的に対しても、もっと深く広く合理化できるかも知れないからだ。少し自覚的、少し合目的に生きていると錯覚(?)しているに過ぎない。

そのくらいでも十分効果的であり、だからこそ世界は変わっていくわけで、文句は無いのだが、少なくとも芸術に邁進する人がそうであってはいけない。いけないか?やっぱ分からんw 勢いよく「俺は合理的だぜ!凄いんぜ!」と行った方が良いのか?でもそんな歴史的大御所は見たことが無い。

ってダヴィンチに会ったことないけどw 昔の人はそんなチンケな算段してないって? ただ今と昔の違いはそこだと思うんだよね。と言うより、近代以降の人が古典や伝統を身に沁み込ませる場合、二つの視点を意識した方が良いと思う。「学ぶは真似ぶ」ってね。

 

可能性を信じて、全ての人に自分と同じレベルを求め、しかしそのレベルに至らないと怒り、呆れる。やがて諦めになり、遂に軽蔑になってしまうかも知れない。でもそうなるとその人の品性を下げてしまう。人の可能性を信じていたはずの人間が、最後に人を見下すようになるのだ。

これだと非常に悲しい。人それぞれ得手不得手はあるからね。ただ水を得た魚として、得意を発揮できる場所を見付けると充実した人生が送れるはず。まあ、どこに行っても苦労はあるにしてもさ。俺の20代なんてその試行錯誤のために費やされた。引き籠っていたが、引き籠りなりに夢は枯野を駆け巡る。

 

人間が成長していく時、先ずは好き嫌いや本能があり、刻一刻に全力で素直であることによって、後に振り返っても奥深い線を描き出す。そもそも歴史とは一つの観点に過ぎず、どう振り返るかによって繋がり方は幾らでも現れる。「今ならあの時の行動や出来事にこんな意味を見出せる」ってね。

言語化することで「他者に言葉で説明できるレベル」に仕立てたは良いが「本当はそれだけじゃない」ことも多いはず。と言うより、ほとんどの場合そんな感じだろう。言語化するにしても、無限の可能性を秘めたオブジェクトから引き出されたone of themの観点という余裕が欲しい。

もちろん言葉にすることで、スッキリするし、落ち着く。あるモヤモヤを言語化して安定させればこそ、今度は「別のモヤモヤを取り入れられる=その安定を元に勇敢に新たなことにチャレンジできる」ので、言語化は言語化で立派な行為で、私も色々とやってきたわけだが、まあ、焦りなさんな。

 

俺の基本能力はこんな感じで、エサはこれで、排泄はこんな感じと。(ちなみに食べて出すことが生物の基本であり、それはナマコを見れば分かる) 「調子の悪い時はこうして、日頃のメンテはこうして」と、自分の得意好き親しみを元に、徹底して俺になって行った。

チーターが俊足を自慢せず、鳥が飛ぶことを自慢しないように、俺が当然になってしまえば、自慢することもなくなる。確かに俊足を舐められたチーターは、時に威を示したくなるかも知れない。「俺ってこんなに早いんだぜ」と。

それに関しても30前後で、自分の思想を言葉に出来るようになると「書いてあるから読んでもらえば良いや」と思い、リラックスできた。話し言葉より書き言葉の人間だが、今じゃSNSの世の中で、サクッと自分を紹介できる。大量だけれども。

議論に興味が無いのもそのためで「俺は俺の思想を練り上げるばかり」ってなもんで、好む人は好み、好まぬ人は好まぬものなのだ。

俺を徹底してしまうことで、自分と言うシステムを我ながら理解し、鬱屈することも減っていった。「俺の方が俺の方が」という意識も減っていった。「俺は俺。それだけで良い」と自然と思うようになった。

 

カトリックってのは大昔から国境を越えた「グローバリズム」にして「古典」である。なので国に利用されたり、国を利用したり、歓迎されたり、嫌がられたりもした。戦国時代にもキリシタン大名はいるが「越えんな!怖えな」と潰されたりもした。

古典ってのはその社会の上下関係を無視しして「歴史を越えて磨き抜かれたクラウド」の前に皆を一律に平伏させてしまう。それが国家社会や地域共同体にとって厄介なのだ。「神の名のもとに人は平等」ってやつよ。

 

古典と言う「神の種」があり、それは皆が摂取できる。「神×そいつ」で「何が出るかな何が出るかな」ってなもんで、そいつがどんな人間であろうと、古典に打ち込めばレジェンドレベルに行きついてしまう。

伝統や文化や歴史という上下関係、序列的な地べたをスッ飛ばし、いきなり天空への道を敷いてしまうのだ。奇人変人大歓迎。地域社会からすると、それが怖い。崩されるからね。でもそれってグローバリズムでしょ。ゲームでしょ。

古典とグローバリズムというのは事程左様に相性が良く、古典を元にした一視同仁の平等こそ望むところ。治安などはテクノロジーの発達に任せれば良いだろう。中国がその例を示してくれよう。

 

「品格とは何か」という議論は置くとして、「現実とは何か」という議論も置くとして、現実的な物に品格があるとして、バーチャルリアリティは発達する。文学青年というのは「近代の原始人」だと思っていて、大昔からいるが、集団としては独逸浪漫派が象徴的である。

文学青年はナチスになり、原爆になり、近代国家の骨組みを作り、即ちリアルになったのだ。妄想が現実を生む余りにも巨大な例だ。

 

悩みってのは無限ループかも知れなくて、感情など捨てて機械的に問題処理をすれば良いのだが、まあ、悩まない人間ってのも不気味なもので、無限ループの痕跡堆積傷跡(?)が、そいつの味になったりするんだよねw まあ、でも悩んでばかりでも暗くなるから、そこそこで参りましょう。

 

エロ本の横にヴァレリー全集があり、それを糞味噌一緒と言った奴等がいて、俺は「そもそも何が糞で何が味噌かは観点によって異なり、糞味噌一緒という見方も出来るし、きちんと分類されている」と返していたものだが、あの並びはやはり正統的な並びだったと今振り返って思う。

何故なら西洋文明の根本には「童貞妄想的エロ本」があり、それが昇華されて色々な文化文明を生んでいるからだ。西洋文明の何に共感するかと言えば、男の性欲が根本にあると言うことだ。女にエロくあってほしいのである。

「可愛い、エロい、やりたい」これらが根本なので多くが俗っぽいが、突き抜けると神学になり、音楽になり、ピカソになり、マティスになる。西洋の偉人というのは「女に欲情する男性的性欲」があり、であるが故に俺には参考になり続けた。

絵画にしても服装にしても建築にしても、東洋文明の方が芸術性が高く、西洋文明というのは「ディズニー的チャーミング」に留まるものが多い。「ただ、だが」である。他者を愛する男性的エロスからの突き抜けが西洋文明の必殺である。根本の鼓動である。

脱自(エクスタシー)に於いて、「周囲との調和」を求めるか。「超越による蛻の殻」を求めるか。 両性具有的に、グールド言う所の芸術とは「瞬間的なアドレナリンの開放」ではなく「驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築すること」。

 

俺にとって占い師は仕事で「占い師!素敵」と飛びついて来る者もいれば「占い師って」と蔑む者もいる。だがそんなことはどうでも良いのだ。俺は反社会的な人間であり、本来社会に交われる人間ではないと思っていた。

そんな俺が働き始めた時、収入は今の半分にも満たなかった。それでも「働き始めたの!凄いね!」と言ってくれた女もいた。そういう女は高校生の時からいる。何故か遠巻きに励ましてくれていた。

色々あって色々失い色々得たが(占い師としてではない)、圧倒的な権力を得て後にケツを振って来る女など、便所としか思えない。

「王子様大好き!」とかクソ女だろw 弱さ醜さを曝け出しても「私が見込んだあなたを王様にする!」と命懸けになってくれる女(男?)こそ、最高。

男っぽい一途な女以外俺の周りにはおらず、嫉妬深いのは大歓迎で、要は「男」なのだ。俺の周りに「女」がいたことはない。寄せ付けない。気味が悪い。

ブランドを有難がる女もいない。自分がブランドだからだ。人の名前をぶら下げて恥ずかしくないのか?

お前は何者であるか?それだけが問われる。

 

自信のない女というのは、どうしてもメンズコレクションに走る。「偉い男」に囲まれることによってアイデンティティを保とうとするのだ。男としても「偉い」という名目が貰えるのでプライド的に都合が良い。

同時に「偉い男」も自分に勃起して腰を振って来るただの男と知れば、女としては「安心」する。その中から特に偉く転がしやすい男を旦那にして子供を産めば、さらなる安定を確保し、コレクションにも余裕が出ると言うわけだ。

男女の縁などと言うものは根本的に下心が付き物だが、時が経てば、ただの縁になり、自分を彩る飾りとなる。だがこれでは「はしたない成り上がりの売春婦」と変わらない。

自分が上に立つにしても、勃起した数多のペニスを柱にしているようなもので、結局のところ軽蔑されるのだ。己の二本足で立ち、全てを睥睨するのでなくてはならない。

 

「このメス〇が!」とか「〇所でしかないね!」などと言うのは、基本的にNGと言うが「乱暴な〇〇X」を求める女性は多い。女の世界は心理的な藻に絡まれるようなクソな世界で、火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞ではないが、ドロドロした宮廷生活をグレートリセットしてくれる天変地異を心の底で望んでいるのである。さらに人間とて生物学的根本は、S〇〇して、DNAを残すことであり、他がどれ程優れていても、性的魅力が無く、異性を興奮させることが出来ない者は、その時点で落第なのである。どれほど賛辞を積み上げても、根底が崩れれば「はいそれまでよ」ってもんである。その点「メス〇〇〇器」扱いしても、ギンギンに〇〇して子宮を突きながら貶しているならば、その時点で「お前の価値を認めている」わけで「めでたしめでたし」となる(?)。さらにその者の性格や日々の言葉や態度を事細かに論い、逐一否定していく作業は、そもそも「なんでそんなに見てんの?」ってなもんで「愛の反対は無関心」という公式からして、愛情深い作業とも言える。さらに加えて(咥えてではない)、その者の「寄る辺、アイデンティティ、夢などを否定していく」作業は大きな危険が伴うが、コツを教えておくと「その者だけを否定するのはアウト」だが「全人類の否定ならOK」になる。「お前如きが夢を見やがってよ」と言うのはただのイジメであり、正義に背く。だが「人類のくせに夢を見やがってよ」と言うのはもはや神に寄る裁断であり、可とする。〇E〇している最中に言葉責めで、唯一神を持ち出すわけだが、まさにそれは多神教の否定である。多神教の否定と言うと「一つの価値観を押し付ける」と言う意味に取られるが、そうではない。「全てはone of themであり、平等であり、お前もただ一人の価値ある存在なのだ」という教えである。宇宙人がやって来て「人間マジブスあり得ねえわ」と言えば、そのイクオリティによって救われるブスもいる。普段は美人を羨んでいても、宇宙レベルからすれば同レベルなんだと。さらにその宇宙人が人類一のブスをピックアップして「本当に地球人はどうしょもねえな!」と言いながら、ギンギンに〇〇して「〇りだけは一丁前だな!」と言えば、気分はもうCosmic?「〇欲を満たすための道具となり切る快楽」ってのもあるからね。「全部忘れさせて!!」ってなもんよ。そこで肯定されれば、モヤモヤも吹っ飛ぶし。

 

俺の文系偏差値は80近く、理系偏差値は40代である。高校1年生の頃学校で公式に行われた適正性格診断では文系意識が100 理系意識が0。文系能力が98 理系能力が2。ゲームなら絶対に取っておきたいキャラである。

ホリエモンでも ひろゆき氏でも 猪子氏でも 砂鉄氏でも誰でも良いが、俺と圧倒的に違うと思う点があって、それは理系能力が一定以上あると同時に、プログラミングができるということである。それらの能力がある人は言葉の定義が一定であり安定している。話の最中に意味がぶれないので、何と言うか、きちんと話せる。俺の場合その真逆である。その話の中でX=3だとして、普通、最後までその定義で行くわけだが、俺の場合 突然X=2になったり1になったりする。逆にX=3を貫くためには書き言葉でものすごく自覚的に定義し、彫刻刀で彫り進めるように慎重になる必要がある。

逆に言葉の意味やシニフィアンとシニフィエの関係が曖昧なもの、曖昧な方が良いもの、刻一刻移ろうもの、即ち和歌を象徴とする詩歌には打ってつけで、それはサビアンの解釈にも言える。陶器やクラシック音楽の音色、女体などニュアンス芸術が好きなのもそのためである。

言葉の意味が安定しない、安定した展開力がない。これを逆手に取り、 シニフィアンシニフィエへの敏感さ、抜き足差し足能力、ゴールキーパーのように同時に色々なイメージを思い浮かべる力を発達させてきたのが私である。それを高速で行う。

ゲームではモダンウォーフェア3のドロップゾーンが俺の真髄である。俺の能力がいかんなく発揮されるモードだ。古文読解も同一か似た言葉にニュアンスの違いを見いだし、イメージを触発されながら、一文字一文字抜き足差し足で文法的解析を高速で行うもの故、これも向いている。

 

ユーモアとは相対性を自覚した上で、「自分」の馬鹿馬鹿しさを笑い飛ばすことであって、自分の価値観を安定したものと思い込みながら、「相手」を茶化すものではない。皮肉とは何か?自分の価値観を安定したものと思い込みながら、「相手」を茶化すこと。ユーモアとは相対性を自覚した上で、「自分」の馬鹿馬鹿しさを笑い飛ばすこと。ユーモアの場合、揺らいだ椅子に座りながら、相手に対して「お前の椅子グラついてるぞw」と言い放って「お前もなw」と突っ込まれる余地を絶えず残している。

私の志向する世界は皮肉が通用しない世界である。ある特定の価値観が絶対と思い込んでいるから正々堂々皮肉れるわけだが、価値観が相対的であることが如実になると、皮肉った瞬間、自分の椅子の不安定さも証明されるから嫌になって皮肉れなくなる。皮肉の無い世界は清々しい。皮肉れない世界とは安定した常識が無い世界であり、常識が無いと「安定的な自己形成が出来なくなる」と言うが、頑張れよw そんなにその価値が好きなら、中世の城塞都市よろしくそのルールで動いている世界で育てば良かろう。だが壁の外の世界のことも知っているはずだ。ネットで世界中の情報を取れるからだ。それを禁ずるのは北朝鮮だが、北朝鮮がそんなに好きか?北朝鮮で無いと「安定した自己形成が出来ない」とでも言うつもりか?この世界には色々な価値観があると身に染みていればこそ「自分などone of themに過ぎない」という謙虚さを手に入れることが出来る。自分では高いと思っているものも、他の人には何でもないもの。その認識がユーモアになり、余裕になるわけだ。ユーモアセンスを持たず皮肉の中に閉じ籠る者は発育不全のガキである。

 

人によって興味の対象は違い、ドラえもん方式で「神ならできる」と丸投げするものがほとんどだが、そいつなりに拘ってしまうものは、無益にも(?)、自分でコツコツ考えてしまい、それがそいつのテイストになるわけで、人生など無益な暇潰しと思い知りつつ、今日を無駄遣いしなさい。

 

不快な人間を消すことが出来る。もちろん人類は物凄い勢いで減っていく。地球のサイズも狭まっていく。地球最後に残された一つの部屋、人類最後の男と女。相手を不快に思った瞬間、独りぼっちになってしまう。その運命や如何に。

 

イジメるなら自分の筋肉をイジメろ。筋肉は強くなって帰って来る。その筋肉に果たして君は勝てるのかな。逃げるのか?逃げるな!さあ今日も正々堂々勝負だ!

 

「マイナス×マイナス=プラス」であり、不安と後悔を掛け合わせて希望に変える。三元徳である信仰希望愛は三位一体でもあり、先ずは太々しく生きているお前の太々しさを太々しく認めよ。全ては随って起こるであろう(?)

 

合理。理屈にも色々あり、その理屈に合わせる方法も色々あり、即ち合理的と言っても様々である。色々あり過ぎて迷い過ぎても人生損するかも知れないが、損得勘定で割り切れる程、人生は単純でも無く、損の中に得を、得の中に損を見出すことも出来る。

ただその人に合ってそうなものがあったら「これなんか、君に合ってそうじゃない。わからんけど」と助言してあげられるような大人になれよ。愛を。一抹の優しさを。

 

ボディビルなどキモい。俺もそう思うし、そう言われてガタガタ騒ぐな。「人の趣味を貶すな」と言うが、「ボディビルを貶すことを趣味とする人を貶すな」と言うことにもなる。趣味なんて貶されて当然だと割り切れ。体だけでなくメンタルも鍛えろ。豆腐がよ。

「体が強い男は許せるが、メンタルが強い男は許せない」と言う女もいる。転がせないのだ。「イケメンも40過ぎればただの人」ではないが、人魚とサーファーの関係で、いずれ男は女の手に落ちて来る。だが天空への導きがあると、男は男でオータルキックになってしまい厄介と。

「女は海」に対して「男は空」などと言ったら、面倒なことこの上ない。対等になってしまうからだ。海(女)の上を颯爽と動くサーファー程度だから良いのであって「なに海面から完全に離脱してんの?」ってな話である。

ただ「男としては淡々と天空を目指しなさい」と俺はアドバイスする。実際にそういう世界である。科学技術を作っているのは男だからである。風の時代だそうで、水瓶座の時代である。水瓶座と言えば科学である。

「科学技術を作っているのは男」と言うのは言い過ぎで女も多いが、ディレクションはほぼ男で、男の長所や夢を実現する技術、欠点を補う技術を作っていく形になるので、男を貫いた方が遥かに得である。

 

まさに無駄からの遭難で、無意識・潜在意識まで「お前になれ」というのが俺のお勧めの成長戦略であり「近代というどうしても無駄を吸収してしまう時代の戦略」「芸術家になるにはの戦略」なのだが、一方で俺は「ゲーム好き、職業訓練の連続が教育、せっかち」なんだよなあ。

 

ある特定の立場から勢いよく、敵対勢力を貶すのは大体20前半で終わった。それ以降は「相手の弁護人だったらどうする」「相手はどのような結果を齎してくれるか」「相手を利用できないか」などを考えるようになった。「ネチネチ絡みついて、長期的に見ようとする」と言うかね。

例えばヴィーガン。「ヴィーガンは自分勝手であり視野狭窄であり、ワタシキレイと言いてえだけだろ」となったら「もしかしたら俺もそうなのではないか」。「人工肉の発展には需要が必要であり、ヴィーガンが率先してくれるのではないか」。「逆に火に油を注いで肉食が進むかも」とかね。

 

「今までに受けた全ての外的要因(と言うことは全ての要因?)の混合物」がお前なのであって、その混ざり様は唯一無二であり、お前の好物である唐揚げを食べたからと言って、俺がお前になれるわけでもない。

ところで「俺が今の俺であるのは外的要因(?)のせいで、俺のせいではない」と言うのは「じゃあ本当のお前はどこにいるんだ?」って話だが、「俺だって本当は!」って「あったかも知れない自分に期待している」のかも知れなくて、引いては「人間の可能性に期待している」と見做すこともでき、実際人生なんてそんな歯車の擦れ違いでどうにもこうにも転がるし、無下にそんな思いを否定するなんて優しく無くてそんな奴、No Romanceでフィニッシュです?

 

「流れに逆らうな」などと言うが、流れなど無限にあり、ここでは順行あそこでは逆行。「いくらなんでも逆行だろw」って時は確かにある。でも逆行も修行のうちだし、逆行された側も経験であり、逆光の無い人生などないし、逆行知らずなどクソである。まあ、順行が良いなら、そう言う場所を探せば良いね

 

子供など立入禁止区域に入って、指を切り落としてみたり、五体不満足になったりするのが仕事なのであって「お勤めご苦労様です」ってなもんよ。そうでもなけりゃどうすりゃ良い?看板を前に「起立気を付け礼」でもしろってか?たぶんそいつパープーだぜ。それを「躾がなっていない」だの「親の顔がみたい」だの、イカれてんの? 

「指を切って痛くなかったかな」「怪我が早く治ると良いね」「俺にもそんなことがあったよ」「これからは気を付けて侵入するんだよ」と明るく励ますのが大人の勤めってもんよ。

 

「狙って実現できるものなど少ない」と割り切るべきで「後から何故出来たのだろう」と分析して、参考になるならすれば良いが、その分析結果を元に、結果を残し続けられるかと言ったら分からない。役に立てられるだけ立てれば良いが、諸行無常の響きあり。それで良いではないか。

 

「西洋思想と言うのは政治思想を軸にしているのは明らかだ」と言ったところ「それだけでじゃないですけどね」と返されたことがあるが、当たり前だろクソが。どこの世界が「それだけ」で成り立っているものか。出来損ないのバカは、いざと言う時にその愚かさを曝け出すわ。

 

決断や偏りということから目を背けさせてくれるのも文化の役割であり、だからこそ文化が広まるという見方もできる。

 

俺は中2で不登校。中3も3学期は丸ごと休んだ。高校は単位ギリギリ。塾は皆勤。悩ましい年頃、当然の決断。「ああ行きたくないんだ」で良いんだ。そんな子供に育って欲しい。

「像にキリンになれ。鳥に魚になれ」って無理あんだよ。そうはなれねえ。悩んで大きくなるのは当然で、像は像なりの苦労が、鳥には鳥なりの苦労がある。己が道を行き切って倒れながら成長すれば良い。それが良いよね。人生ってそんなゲームだよね。

 

古文。話し言葉として使われていない言語を、頭の中でギコギコやることに意味があるのだ。言語と言うのは単に会話のためにだけ使われるのではない。そもそも古文を学び、その者に影響すれば(しないわけはない)、古文には「関りを持つ力」があることの証明であり、それが無いものも無いが、古文は比較的影響力が強いであろう。外国語でも人工言語(ラテン語など)でも、言語の影響力は強く、古文は日本語の骨格であり精神が引き締まり、祝詞のようにイメージ触発力も強いからだ。吉田松陰は牢獄の中で古典文法を学び、幕末の志士たちの間でも流行った。

物質ではないジャンルで「日本の精神的背骨ってなんですか?」と問われたら、私は即座に古典文法と答える。高1で初めてきちんと学んだわけだが、その時既にそう思っていた。

世界各国「これが我が国の古典だ」と提出するとして、中国は「書」を出してくるだろう。日本は何か?茶や花など、幾ら出しても「古典」ではない。ナントカ流などone of themの個人的「癖」のようなものであり、古典の名に値しない。古典の定義は以前に書いた。

言霊幸ふ我が朝からは、日本語による一切の表現、果ては漫画アニメなども含めて、言語が影響したる全てのジャンル(と言うことは全部?)の根本たる古典文法を提出すべきである。日本語話者は言語化する力が強く、それが漫画絵やオノマトペにも繋がっているわけだが、その変幻自在の日本語の文の法たる古典文法こそ時代を貫き、あらゆるジャンルを包括し、逆に一度それを身につければ時と場所を超越して色々なものと交流する切っ掛けと、物事をビシッと眺める精神を与えてくれるものである。

水は高きより低きに流れる方式に「現代日本語と違うからいらない」などと言う問題ではない。古典とは古に完成されたものを各時代に受け継ぎ、磨き磨かれることで只今の生命とする余念なき業である。

そもそも言語など古過ぎる?人の言語能力は低過ぎる?「だが、それでも」だ。

各時代の言い回しは古びるが、古典文法は古びた試しが無い。ピラミッドと同じである。1+1と同じである。

 

結局「じゃあやってみろよ」と言う話で、ボルトを評論したところでボルトのように走ることは出来ない。もちろん走れるようになるなら歓迎で、細胞レベルで方法化し次の瞬間ボルトに化けられるなら、それはそれで良い。だが少なくとも「複雑」なのは事実だろう。

あるものは人間に簡単に意識化できるものだけに支えられているのではない。意識化が難しいもの、本質的に不可知なもの(最終的には神の領域)に支えられているのであり、絵描き歌のような単純なものではない。

「俺がお前でなく、お前が俺でない」と言う、たったそれだけのことを取っても、それは証明できるはずだ。

 

10年以上前に「自覚的自閉が多くなる」=「信じたい情報を信じる人が多くなる」から、逆に「客観派は客観性を貫いた方が良い」と言ったが、その意見は今も変わらない。皆が捨てる客観を拾い集めろ。客観が複雑になっても客観は客観である。「客観なんて無い」なんて譫言寝言絵空事だ。

買物するにも1+1=2であり、殴ろうとすれば身を守ろうとし、名を呼ばれれば振り向いてしまう。男は月給に支配され、女は月経に支配される。十分だろう。客観は依然として圧倒的だ。

 

ちなみに今の話とは余り関係ないが、ゲームで言うとボスの弱点毎にパーティを替えるかと言うと、押し切っちゃうだろ?パーティ替えよりレベル上げ。愛着あるキャラを育てる喜びには代えがたい。同レベの有利キャラを直ぐ出せても変えないだろう。This is my way,my style.

DSの「女神転生なんちゃら」ではボス毎に相手の弱点属性を突けるチームにしないと無理だったが、だからこそあのゲームは嫌だった。その時点でパズルゲームっぽくなるし、こっちの愛着もクソも無く、やらされてる感が強くなり過ぎる。

真女神転生3にせよペルソナにせよ、弱点を突くとターンプレスで押せるが、炎弱点のボス相手でも稲妻で通るし、雑魚相手ならオートバトルにして通常攻撃で張り倒せば早い。だからこそ愛着を持ったキャラで進めるわけで、それ以上だと、やりたくもないパズルになる。

 

「経験則=実際に経験された事柄から見いだされる法則」ってのが凄くて、森羅万象に仏が宿るよろしく、自分でも身近な物事でも、そこに宿る小宇宙から大宇宙を推し量る力を人間は持っているようである。古事記も宇宙論っぽいし、世界各地の神話を少し捲れば、明らか(?)である。エドマンド・バークが言うように人間の理性で把握できるもの、言葉にできるものなど氷山の一角であり、無意識的堆積こそが「理性、感情、言葉、感覚、態度、行動、雰囲気、人となり」を決める。常識も同じで「常識ですから」と言い放てば、批判も受けようが、経験則から来る全身全霊なのかも知れず、言葉やデータには出来ないかも知れないが、確かにその者が捕えている何物かではあるのだ。

ところで経験則にも色々あり、無意識にも色々あり、常識にも色々ある。人柄国柄宇宙柄?どの常識を好むかも多種多様で「結局お前を貫きなさい」と言いたいw 個人的問題で考えても、感情や無意識を置き去りにして、機械的理性だけで突っ走ることで、局面が変わることだって多いからね。無意識が意識に影響を与えるように、意識が無意識に影響を与える。テスラよろしくマッドサイエンティストが人類に与えてきた影響も大きいし。

「常識とは何か」については、そんな感じで答えることも可能だが、だからと言って常識に平伏す義務があるわけではない。「常識とはかくかくしかじかのものであるのは分かった。だがそれがどうした?」ってなもんである。「常識だろ」と言うセリフに「これが俺の全存在を賭けた価値観なんだ!」というニュアンスを汲み取ったとしても、その常識を否定するのも一つの方法であり、常識も多種多様であり、理性なり非常識なりを突っ切らせたいならそうするが良いのだ。

「常識とは何か」、それを説明されたからと言って「常識なんてクソ喰らえ」というセリフの輝きが失われるわけではない。だが常識や伝統と言うのは根強いので、それは舐めるべきではないが、舐めるぐらいの勢いも時には必要だし、その後の糧にもなるから、これからも好い塩梅に育ってください。

 

マグロと言いつつマンボウを提供して大将は怒るわけで、日本人は言葉で中身を誤魔化すイヤラシサがある。「中国の皇帝は文字を作り、言葉とその意味を変えてしまう」と馬鹿にする馬鹿がいるが、マンボウ寿司なら、マンボウ寿司と堂々と言うべきで、「翻車魚」という漢字も新たに作るべきである。

 

免疫の弱さを自慢しながら人の上に立とうとする愚かさ。

 

粋でスカッとさせてくれる男がモテる。何故か?女が無粋で重いからである。重い所に重いものを持って来られても迷惑なだけなのである。

 

ゲームで育ってるから目的のために手段があるというのは本能的な感覚なんですが、一方人間がそこまで明確な目的意識を持てるのか、目的のために適切な手段を取れるのか甚だ疑問なんですよね。そもそも目的意識自体が無駄かもしれませんし、なぜその目的を持ったのか、その起源を追っていけば、あなたも自分の得体の知れなさに打ち震えるかもしれませんね。逆に生まれ持った使命があると確信があるなら、あなたが例外的なのかもしれません。幸せで羨むべきことですが、多くの人はそうではない。だが得体の知れない暗中模索によって世界は回っており、あなたもその世界の中に生きているということは知った方が良いかもしれません。産まれちゃったから惰性で生きている、そんな人がほとんどなのではないでしょうか。でも惰性だけだと苦しいから、男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなりと、ちょいと目的意識でも持ってみるかと、 なんとなく真似事をする場合もあると。そんなもんなんじゃないでしょうか。食べていくためと仰いますが、それなら他に手段はあるでしょうし、何もそんな方法で食べていく必要はないはずです。おそらく他の理由があるんでしょうね。それがあなたの人生、あなたの存在そのものということでしょうから文句はないんですけど。

目的と手段と言っても、結局はそういう風に曖昧で自身にとっても得体の知れないものなんですよね。今に至る因果、それは即ちあなたが今のあなたである全ての原因のことですが、そんなものは説明できますまい。ただそんなことばかり言っていては苦しいから、藻に絡まれてばかりいるようで気味が悪いから、目的意識とか使命とかミッションとか言うんでしょうね。でも人生の価値って無駄で決まるとも言いますし、そもそも目的も、あるいはもしかしたら食べる事すら無駄なのかもしれないと、思ってみるのもリラクシングで良いかもしれませんね。振り返れば、目的も無目的も、食べる事も食べぬ事も贅沢なのかもしれない。

 

学者と言うのは「理」である「理とは溝」のことである。その溝が好きならその溝にハマっていれば良いが「今までこの溝に沿って来たからこれからもこの溝でよろしく」と言うのは迷惑な話で、それが「文化的圧力」ってなもんでもあろうが、知らぬ。文化は人を馬鹿にする。

「溝が幾つもあると混乱するから、今までの溝に従わせねばならぬ」と息巻くが、近代になり人口が多くなり、情報と交通が発達すると「俺には俺の溝がある」と、あちこちで勝手に溝を作ってしまう。すると収拾が付かなくなる?最短ルートを提示してくれるAIを使えば良いわけで、実際に収集はそれなりに付いている。

それぞれが勝手に作った溝を、目的のためにどのように使うか考えれば良いわけだ。グーグルで検索する行為自体がキュレーションとも言え、近代の「溝多過ぎ問題」は「溝少なすぎ、ぜってえこの溝使え問題(これも近代に起きた問題?)」より遥かにマシ、いや自由で素晴らしいと言えよう。

溝が一杯あると混乱すると言うが、少な過ぎて鬱屈するより、多過ぎて自由な方が開放的で良いだろう。絞りたければ、自分の意志で絞れば良い。すると「絞れない人間もいる」と言うが、いつの時代もマイナスを蒙る人間はいるのであり、溝が少ない時代には自由を求める人間が鬱屈するのである。

※「キュレーション curation」とは情報を選んで集めて整理すること。あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業を意味します。

 

「水っぽいのが日本で、油っぽいのが中国」「渋いのが日本で、派手なのが中国」などと言うなら、荷風でも光春でも安吾でも読むが良い。現代の街並を鏡花風に描写してみるが良い。鹿鳴館であり、礼賛しようにもそうすべき陰翳が無い。

 

ところで大昔も絶対音感のある人はいたんだろうね。絶対音感のある縄文人平安貴族江戸庶民。

 

クラシックの聴き方として、一つ一つの音ではなく、その音楽の構造を味わうという見方がある。見方があるというより、非常に正統的な鑑賞の仕方である。だが私にとってクラシック音楽とは、骨董品のようなニュアンスの芸術である。

高さ長さ大きさ音質。音はこれらの要素で成り立っている。そんな音と音との関わりが楽曲である。クラシックに使われる楽器によって出現する音はそれらの要素を非常に細かく表現できる。

そんな非常に細かい音どもの連関なので、ニュアンスを味わうなどという観点からでなくても、音と音との関わりを追っていけば、それは必然的にニュアンスと言うべき細かさを追うことになり、演奏家が「私は別にニュアンスなどというものを表現したいわけではないですよ」と言っても、私のクラシックの聴き方は変わらないし、それで我が望む糧は得ているし、クラシックならではの栄養も吸収できているだろう。微細な音の連関は、聴き手からすれば、要はニュアンスだからだ。

そして奏者も意識していない何かをそのニュアンスから汲み取ることも当然可能であり、私の解釈が「奏者の音と音との連関の把握」に影響を与えることもあるだろう。それは全ての芸術活動と何ら変わらない。

 

再掲

【テクノロジーと五感に任せて感想を撒き散らせ】

フォトショップのように、音楽も「高さ・長さ・大きさ・音色」を細かく調節できるアプリがあれば、それを元に具体的に指摘できるから「漠然とした感想を言っていれば良い」と思うよ。まだ精度が高いのが無いんだよね。

ピアニストの微妙なタッチを楽譜化して「じゃあ、こう変えたら好きじゃなくなるのかな」とか自分で色々と試せるし、「ここを弄ったらダメになるかな。違うか。ここかな」とかやってるうちに自然と音楽を学べるし。最初のうちは指摘が的外れでも、そのうちスパッと指摘できるようになる。音楽評論家にも便利だろうね。「ここがこうです。こうしたらこうなります」ってね。

あるいはそこから「あなたにお勧めのピアニスト」みたいに、自分の調節に基づいて自動検索してくれたら好きな演奏に出会える可能性も上がる。

まあ、技術が進歩して自分に合った道具が出て来るだろうから、とりあえず五感を楽しませるように感想や印象をバラ撒いてれば良いんじゃないのかな。俺の音楽評論(?)は昔から今に至るまでポエムみたいなもんだよw 全然恥ずかしくない。「本気出せば」じゃないけど、今言ったようなアプリがあれば「偏執的に細かく指摘できる」って意識があるからね。

料理だってレシピを当てられなくても自分の好き嫌いを言うだろ? 余程好きな料理に巡り合ったらレシピを聞けば良いわけで。まあ、教えてくれるか分からないけどさw でもそれだったら成分分析機にかければ良い。0,01グラム単位で表示してくれるかも知れない。AIが作り方を教えてくれるかも知れないよね。

「後で良い」んだよ。五感の望むままに喰い荒らして満足していれば良い。細かく具体的な分析が必要だと思うなら、そうすれば良い。必要を感じないなら別に要らないよね。

 

そもそもハーモニーってものすごく規律っぽいんだよね。ただそもそも日本の楽器ってガチャガチャうるさいw 清少納言も言ってるよ。篳篥がそもそも。雅楽の打楽器もなあ。 龍笛と笙は好き。

やはりそう考えるとグールドのブラームス間奏曲、草枕かな。異質な空間を出現させる、その空間に籠城すると言うより、ある種の桃源郷の中でのflow。

 

「人は愛を求めて過ちを犯しますが、過ちを犯さぬ人などいないのです」

まあtheテレサ

 

書き言葉で入念に捏ね繰り回す程の説明で無い限り、説明はしたくないが、入念な説明も多様であり、どの入念な説明に聞く耳が多く集まるかは文化である。聞く耳が少なくとも、あなたはあなたを貫きなさい。

 

「言語化上手い合戦」だと「センスの悪い奴がセンスの良い奴を駆逐する=悪貨が良貨を駆逐する」ので、「言語化できなくても気にしない気風」「言語化補助装置」を用意する必要がある。言語化は頼もしい武器なので、それはそれで活用したいけれど。

 

そいつの核になるものなど1つか2つであり、それがどう展開するかである。私ならば「相対性相対性」言い続けているだけ。「資質、モチーフ、技術」の三位一体が己に食い込む程、それが如実になる。どこを切ってもお前のDNAが出現する。マティスの作品は全てマティスっぽい。佐伯祐三は壁だけw OK牧場w

 

「自分の好みに過ぎない」と言う自省が無ければ、傲慢な普遍主義を晒すだけだが、人を育てるに当たっては「まあ、そこそこ皆に役立つだろう」と言う意識を持ちつつ、だが「やっぱりそうでない人もいるよな」と言う自省を働かせて云々。

 

貶す人、貶される人。どちらも舞台の上の人であり、それを客席から見て「まあ、色んな人がいますよね。ほっほっほ」と言っているだけでは、永遠に舞台に上がれない。「お前も自分の立場を選べ」と言うが、役者も本気で貶し貶されているわけではなく、あれは演戯だ。

「色々な人がいますよね」と言う大らかな気持ちで、事に臨むのが基本スタンスであって欲しいのだ。確かに毎度毎度「ほっほっほ」とは言ってられないし、怒りたければ怒れば良いのだが、ユーモアセンスの大切さは永遠に不滅です。

 

女と女性化された男の「共通点はナルシスト」であり、言わずとも気が合うのだ。だが本物は女であり、女は自分の腹を見れば子宮があるが、女性化された男には無い。ペニスも切り落としているので「女性化された男は劣化版女であり、劣化版男」と言うことになる。

 

誰と付き合っているかで、そいつを見るのはクソで、大仏は万人を一視同仁。正々堂々孤高に座したい。

 

お前に清潔感があるならば「汚れ仕事は人任せ、故にワタシキレイ」で済まないはずだ。自らの不潔さを呪わしく思えないなら、穢れきっている証拠だ。

 

野生動物はキレキレで、ペンギンも例に漏れない。

 

クラシックは作曲家が書き言葉的に建築するものだが、それを流暢に演奏する。インド人は頭脳明晰で(?)、日本に来たことが無いのに、日本語ペラペラな人もいる。

「話し言葉が先だから、話し言葉として使われている環境で学び、話し言葉的な創作をする」のではなく「書き言葉から、話者のいない外国で学び、書き言葉的な創作」をしながら「結局流暢になってしまう」というところに人間の知的な凄みがあるのだ。

PS トレーニング

 

サイコパス的な男はそれなりにモテる。「少しはサイコパス味が無いとモテない」と言った方が良いかも知れない。芸人がモテるのと同じで、現実を突き放してくれる清々しさを感じるのだろう。だが、サイコパスに近付いて幸せになれるかと言うと、それは難しい。

 

誰でも出来ると言うのは素晴らしいことで日本には日本語話者が多いゆえに、日本語が発達する(?)のと同じである。美を紡ぐ人間が多ければ世の中には美に溢れる。溢れ過ぎたら有難味がない?ウンコが溢れたらスルーできるだろうか?

 

「そうやって馬鹿にしてお前に何が残んだ?」って俺にも何が残るかわからねえけどなw

 

相手を思い遣るのではなく、勢いで突っ切ること。そうすることで求心力も高まり(?)、実現力も高まる。アメリカのような各団体が政治がかっているところでは余計に「勢い戦略・調整は神の見えざる手に任せる」方が良いのであって、各人の思い遣り・自己批判など要らないと言うかも知れないが、ユーモアセンスも魅力の一つだし、自己批判の末により筋肉質になれるのであって、俺はそちら。無論、自己批判など高が知れているのかも知れないが、勢いも高が知れているのかも知れず、どちらにも神の手は働くだろう。

 

「そんなのどうでも良い式」のアメリカ的プラグマティズムは現代のように何がどのように絡みどのように役立つかわからない社会では「どうでも良くないよ」の一言で覆されてしまう。日常生活を送る分にはシンプルにまとめようとする力が役立つだろうが、「偏見を取り去って役立つもの集まれ」式のスパコン検索や「もしもこれがこうなったらすげえ役に立つ」式の育成自由自在を前提とすると、プラグマティズムを目前に対する最適化と解釈しても、最適解は究極的に無限になるから、何が最適か分からなくなる。さらに目前に対して最適化するということは、その目前の目標の実現に何らかの重要性を見出していることでもあろうが、世の中を流動化させることが容易になると「その実現全然意味ないよ」式にゴールをさらに遠くへ押しやることも簡単になる。

そんな時代に於いては、圧倒的な人口と現実に対する貪欲さを持つ中国とあらゆる可能性をフラットに貯蔵するロシアのコンビネーションはやはり強いと思う。各々好き勝手な目標に向かって、ルールもモラルもなく突き進み続ける。そのための素材はGoogle的な広大無辺の白亜の大地から出てくる。アメリカがそこに張れるかなんだよね。実際に投資家は21世紀は中国の時代だと何十年も前から言い続けている。

地球を滅亡させられる奴が「美味い豆腐を喰わせろ。そもなくば滅ぼす」と言っているなら、美味い豆腐を作る技術が世界平和に最も寄与する技術と言うことになる。「そんなのどうでも良い」とは言ってられない。そしてどのような技術が豆腐製造技術に値するかは、本来誰にも分からない。あるいは「お前など雑魚だから相手にする価値はない」と。その雑魚を育てて、先の地球丸ごと脅迫野郎に仕立てたわけで、この先誰がどういう力を持つかも、誰にも分からない。無論、敵(?)もさるもので「豆腐など食わせねえ。だが地球は破壊させない」と来るかも知れない。「地球滅亡返し」だ。催眠ガス(?)で「豆腐など喰いたくない」と思わせるのかも知れないし、毒ガスで殺してしまうのかも知れない。そのように条件も自由自在に変えられてしまう。無論、破壊神も負けてはおらず「美味い豆腐だったけどやっぱ滅亡させるわ」と約束を反故にしてみたり、「豆腐の次は焼きナスが喰いたい」と調子に乗るかも知れない。事程左様にゴールも延々と先に引き延ばすことが出来る。ただそれはそうなのだ。と言うのは、太古の昔、宇宙が始まった時から、現実などそう言うものなのだろう。ただそんなことばかり言っていては耐えられねえから、仮のゴールを作り、人間だけでなくあらゆる存在は、そこに安心を見出して来たのかも知れない。

 

「自分に与えられた才能は何か」、それを真摯に見詰め、丁寧に、時にリスクに晒しながら、失敗しても諦めず育てて行けば、誰でも相当行く。

 

「美人がいるから比較されて不細工扱いされる。美人を絶滅させよう」と同じように「利巧がいるから比較されて馬鹿扱いされる。利巧を絶滅させよう」と言う意識がアメリカにはある。ヒステリックな政治団体を知的にやり込めた場合、その反応が得られる。

「馬鹿扱いされる」と言うより「こいつは俺のヒステリーを認めてくれない。俺のヒステリーには俺のアイデンティティが掛かっている。こんな奴を認めるわけには行かない。なんとしても殺してやる」となるわけだ。

アメリカの強い企業が強いのは「利巧殺し」をサバイバルすることで胆力を付けてるからではないだろうか。自らを殺しに来る奴等も利用しなければ、自分達が死んでしまう程の緊張感を持っている。

 

「好きなことだけしろ」と。「それで変なんなっちゃった」と。「変なんなってから考えな」「それでその時考えよう」

PS 助け合い


ピカソの何が良いって、作品としては彫刻が圧倒的に好きだ。原始人に比べると、油断も隙もあるが、それがチャーミングさでもある。魯山人もみみずくの彫刻は良いと思ったらしい。「ピカソは何回も同じことを繰り返すうちに頭が狂ってあのような異常な作品が生まれるのであろう」と論じたのも興味深い。こちらのブログに書いてある側面もそうだが、俺としては近代的神経症からの原始的感覚への接近としても興味深い。※
ちなみに保田與重郎はダヴィンチやピカソには否定的で「あれでは人類を否定し、文明文化を壊す」のだそうだ。「ダヴィンチは神と自分の一対一で自閉的であり(福田恆存も言っていた)、ピカソは原始人なので文明文化歴史伝統と言うことではない」と言うことだろう。俺はどちらも好きだ。
ちなみに近代の重要人物と言えば、これも福田恆存が言っているが「ドン・キホーテ、ハムレット」である。どちらも架空の人物であるが象徴的である。どちらも神経症的であり、妄想的であり、八面六臂の活躍であり、即ち近代人である。
ナポレオンは実在の人物であり、これは天然度が高いからか保田與重郎もお気に入りのようで、私も好きである。独逸浪漫派も「お空に綺麗なお星様」であり、これは舐めているのではない。ニーチェも抒情詩人こそ「生のありよう」と言っている。原始人が泥を捏ねて試行錯誤したように、文学青年もモヤを捏ねて試行錯誤したのである。文学青年とは近代の原始人である。原始的試行錯誤が文明の礎になったように、近代的妄想も近代文明を生み出したのである。妄想的、ポエムと馬鹿にしたところで、漫画アニメ大衆文化の隆盛は止まるところを知らない。原爆もよく落ちました。
近代に於ける「アウグスティヌスがアルチュール・ランボー」「トマス・アクィナスがジャン・コクトー」と言うのが私の見立て。ランボーの地獄の季節は「ゲーテのファウスト」のようでもあり「チェスタトンの正統とは何か」のようでもある。そしてイリュミナシオン、幻想幻視、故に原想原始?ランボーの言葉は子供の俳句のようでもあり、それを走らせてもいる。「太陽と手を取り合っていった海」。
ところでグールドは漱石の草枕が好き。※
バーバパパもモダンバーバリアンで素晴らしい。
ちなみに日本を代表する近代的人物とは誰か?こち亀の両津勘吉である。天下無双の日本晴れである。
※ http://blog.livedoor.jp/zepclone/archives/10537878.html
(多分これは世界中にも類を見ないピカソ芸術論やと思う。 実際、この洞察は創作活動の本質、繰り返し行為がもたらす集中力による精神の覚醒、創作の高次元への昇華現象を的確に言い表しとる)
※【答えは最初に出ている】
グールドがアラン・ターニー訳の『草枕』に出会ったのは1967年。『ブラームス間奏曲集』の録音が1960年。グールドのブラームス間奏曲は草枕の即身成仏。最初に答えを出していたのだ。さすが。
http://1000ya.isis.ne.jp/0583.html
http://1000ya.isis.ne.jp/0980.html
 

脳ミソは柔らかい。なので頭蓋骨で守る。守られた脳ミソは順調に発達する。発達した脳ミソはヤバい発明をする。原爆の一つや二つ落ちる。元はと言えば「怖い怖いの防衛本能から来る」もので、ビビリこそ魔界からの使者?

怖いもの知らずを貫くなら、人体の構造から変えなくてはならない。裏表ひっくり返して、臓器を外側にぶら下げ、どうでも良い皮などを内側に包んで(?)大切に大切にすべきである。

 

「伝統や文化があるから今のお前がある。伝統や文化に感謝しろ」と言うが「宇宙があるから地球があって、地球があるから世界があって、世界があるから国があって」と大元である宇宙に感謝し続けるには、伝統や文化などは神棚への階段でしかなく、階段に手を合わせていても仕方ないのである(?)。

それに対して「伝統や文化が出来たのは人間の共同体が出来てからで、そこをリスペクトしろ」と言うかも知れないが、最初の方の人達は先祖より宇宙に感謝していたかも知れず、「人類の大元である最初の方の人達へのリスペクトがあればこそ、彼等のマネをして伝統や文化を軽んじ、宇宙に首ったけです」

 

「文化の中を生きる」のではなく、「作って打ち上げて原始人として生きる」。「サイエンティスト両津勘吉」みたいなのが理想w

 

吉田兼好も言ってるけど、恥知らずになんなきゃ戦って行けない部分あるから。本当に言ってたかな。忘れたけどw 恥知らずな部分だけで出来てるから別に気にしない。

 

歴史をいう奴等のほとんどは、歴史的人物の99%以上を知らない。当然だろう。俺も知らない。過去に現れた人物の中で、現時点でスポットライトを浴びている人間を知っているに過ぎない。「歴史を尊重しなさい」と言ったところで、それは所詮「この100年足らずの間に、比較的有名になった奴に注目しなさい」と言うことに過ぎない。歴史上の「偉人」は膨大である。広大無辺である。と言うより、地球上に現れた全ての人類かも知れない。すると、何をしても前例を求めることが可能になる。それでは「歴史的価値を尊重する=特定の価値を尊重する」ことは出来ないのだ。

歴史的建造物を尊重するのが歴史的行動(?)と言うが、歴史的建造物を燃やした奴も、歴史上存在するのであり、その者を尊重するのであれば、歴史的建造物を燃やすことが歴史的行動と言うことになる。事程左様に「歴史」と言っても、実は圧倒的な偏りがあり、歴史をきちんと見直したが最後、相対性のカオスの中に放り込まれてしまう。

だがそれで良かろう。カオスの中から好きな物を選んで立ち上がれ。博物館もトレーニングジムも、そこにはある。好きな方向に向かって、好きに鍛えられる。それって爽快?パラダイス?

「それでは持たない」と言うことなので、最低限のルールを決めることになる。「十戒以外はご自由に」と。その十戒は変動して良く、それを決めることこそ「政治」と言うことになるが、ルールの数を増やしたり、リスペクトリスペクトうるさく言うのは許されない。一々面倒だからだ。

 

文明とは誰でもOKであり、文化とは限られた人である。

文明とはWhatであり、文化とはWhoHowである。

文明とは道順を問わないであり、文化とは道順遵守である。

文明とは実利であり、文化とはブランドである。

「特定の人間のみが既定のコースに則って行う儀式を有難がる」などクソ過ぎるだろ。

 

三島由紀夫も「西洋を語りながらお茶漬けと浪花節から離れられない日本人にはウンザリで、私が待望するのはハンバーガーをパクつきながら能や歌舞伎を語る日本人の登場である」と言っているが、そういうことである。ローカルな御上根性が無くなったところで、伝統は滅びない。

 

「ガキのくだらぬ信念」などと言われそうでも、70歳80歳になって、そんな思い出話をすると、皆ニコッとするんだよね。「と、言うことは」だよ。そのポテンは今。

 

知識が無く、トレーニングを受けていなくても、才能のある人間はいて、そういう人間が好き勝手な意見を言える環境と言うのが、どうしても必要。それが無い「界」と言うのは、尻すぼみであり、すぼんだ世界を維持する要員として機能していれば良かろう。

「謙虚に学ぶこと」と「好き勝手な意見を言える環境」と言うのは矛盾しない。矛盾すると言うなら「自分はやっぱり随分貧しい環境にいるのかも知れない」と言う自省が必要。

その意味で「豊かな環境に身を置く自分を持つ」ことの大切さよ。「古典(の定義は何度か書いた)」でありながら、俺の勝手とばかり好きなことを言って、好きに試行錯誤し、好きに結果を出せてしまう。漫画もアニメも、ゲームもHIPHOPも、だからこそ大船なわけだからね。

思えばそもそも人類がそうなのだ。色々な団体、同好会はあれど、全体で見ればお構いなしで、それぞれ好きにやっている。自分の気に食わない人が、自分の気に食わないやり方で、自分の気に食わない結果を出している。しかもその流れから色々な奴が生まれ、自分の気に食う奴さえ出て来る。

 

お決まりのパターンが四方八方に伸びていればこそ安心を得て「ああ、色々できるんだな。俺にも出来そうだぞ」と思わせ、四方八方に人員が行き渡り、四方八方で色々なものが発達する。音楽からダンスから服装から一応のパターンがあることは豊かなことで、それは一国の文化を見れば明らかである。

 

右に伸びてゆく枝を切っても、その木が根絶やしになるわけではない。他の枝が伸びるだけだ。GHQは内務省や旧制高校や武術などを禁止したが、マンガアニメゲームは発達し、世界を占領した。アンドレ・マルローも言っていたが「一国の文化などそんなもの」なのである。

 

望遠レンズを覗き込んで「視野が広いですね」とは普通言わないが、遠くの対象の横幅を、広く捉えることも可能である。広角レンズ的視野の広さだけでなく、「望遠レンズにも広い視野というのはあるのだ」と。そもそも広角より超広角、超広角より360度カメラ、そして神の広さへ視野は無限に広がり続ける。広角レンズ的な奴も、望遠レンズ的な奴も、そいつなりに寄ったり下がったりで、視野を調節して、その時その場の視野角を得ているに過ぎない。「望遠レンズ的視野の広さ」「広角レンズ的視野の深さ」というのもあるのだ。

私が何故これを言うのかと言えば、西洋文明のミソである「復活」は「今ここでないどこか」に憧れ求める心性に関係し、復活を実現するためには「望遠レンズの色々な使いこなし」が必要になると思うからだ。「望遠レンズは視野が狭い」と言うのは、それこそ視野の狭い話で、そもそも望遠レンズを「あんまり使っていない」のである。

 

リスクを背負って起業するように、リスクを背負って引き籠る。坊主や学者と言う名目を得ると、引き籠りにも箔がつくが、それも要らないと。そうやって「俺」になることこそリスクを背負って得る対価?

 

それは原始時代から今に至るまで行われているが、近代芸術領域に於ける「オブジェクトの解体と再構築」は19世紀後半から20世紀中頃に掛けて、為されたはずだ。音楽絵画文学etc何でも良い。

味覚とは「最も保守的にして最も急進的な器官」とも言われる。慣れ親しんだ味以外受け付けないと言う拒絶本能も発揮されるが、「胃袋は世界だ」的にカツ丼からアンパンから豚から何から生まれる。先ずそこで圧倒的な完成度である。今更ワールドワイドもフュージョンも無いのである。「最初に結果は出ている」方式に、料理の世界でもそれは行われたはずだ。

では「素材を分解して云々」の話はどうか?「ミソの成分とは~~で、それをシート状にしてみました」などと言われても、今更驚く必要は無く、それは20世紀半ばに恐るべき完成度で提出されたはずだ。大企業による食品の科学的分析、化学調味料の開発などがそれに当たる。海老をパウダー状にするなど余りにも当然のことで、スーパーに行けば分かることだ。「自分の所で科学的ラボを持ち、食品開発や研究をしています」と言うのは「自前で好きに出来る」という点では良いが、規模と緻密さで大企業に遥かに劣るだろう。そこを個人で受け持っても限界がある。

冷凍食品や調味料を作っている食品会社が本気でレストランを出せば良いのではないか?今までの蓄積と何十億と言う研究予算から色々なものが生まれる。それを本当に美味しい料理に結び付けられるかどうかは、腕次第だが、少なくともアイディアは直ぐに実現されるので、便利だろう。「このグレープフルーツをパウダーにして」「肉塊の中心部を焦がして、周りは生のまま」など朝飯前だろう(本当か?)。 その環境を活かせる料理人を雇えば、3つ星など楽勝だろう。内装の美しさも企業が金に任せてねじ伏せれば良い。すると食品会社は自前の3つ星レストランを持つことが当然となり、逆に持っていない食品会社が「お前の所、まだ取ってないの?」という感じになる。 3つ星レストランを所有する食品会社から出ている冷凍食品なり、調味料ならブランド力もあり、色々と得であろう。

グーグルとかAmazonがレストラン出しても面白いけどね。色々な調味料や調理器具を開発したり、世界から持ってきて「こんなのがあるんですよ」と。キッチンでの料理風景を配信する。それを見た視聴者は材料、調味料、道具などを買う。

 

文学の喜び。自分の想像力や論理を駆使して、読み進めるってのも大きいのよね。文字は色々触発します。あなたのペースで。点滴的に流し込まれるのではない自力感があればこそ、歌の翼も生えて来ようというもの。

 

まあ、オフロードで試行錯誤することに遠慮するなってことだね。転びながら覚えて行けば良い。転ぶ度に「これで優しくなれるんだ」って自分を励ませよ。

転んだこともない、迷ったこともない奴なんて怖すぎるだろw 生甲斐がない、どこに行けば良いかも分からない。そんな虚しさや悲しさを知ってるから、年を取って若者に微笑めるんだよ。気味の悪い老人かも知れねえけどなw

 

目的も無く彷徨う、無感動やニヒリズムに陥る。そうならねえように近代になり近代スポーツが生まれたわけで、親がそういうレールを敷いてくれたわけだが、親の心子知らずで、彷徨い無感動にニヒリズムに陥るが良い。その悲しさ虚しさを知るが良い。

敷いてくれたレールにハマれば良いが、それではオーダーメイド的にピタッと行かない。のたうち回りながら試行錯誤し、何とか自分を抉り出す。そのオフロードの試行錯誤こそ、後世への最大遺産。

 

人間は現実を具に観察していない。人間の頭の中で考え出された漠然とした概念と変わりはしない。具に観察しようとした場合に限り、実存する対象は、それに応じて「反応」がある程度だ。脳内の架空の産物とて、問い詰められれば、それに応じてその姿を具体的にするだろうけれど。

 

和を以て貴しとせず、時代の波にも乗らず、金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る。 変わり者にテストステロンでぶち抜きなさい。変人であることに引け目や負い目を感じるから、チャラい奴が勢いだけで調子に乗るわけ。

 

「一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓す」 己一人の幸せ、一身だけの誉れ、一時的な損得。そんなものは払い除け張り倒せ。我一つの命ではない。時を越え、古の人々、未だ見ぬ人々の糧となり、心を豊かにする。その志こそが本懐なのだ。

 

「理由を説明しなさい」と言われ、無限の理由を並べることになるので「太陽が眩しかったから」と答えて、相手を不安にさせて殺される人もいるが、そのくらいで不安になる方が悪く、薄気味悪い理由を並べた後にやってくる攻撃に、カウンターで備えなさい。

結局「理由の説明」と言うのは「相手に安心してもらう」と言う効用があるので、それはそれで現実的には大事なのだが「本当はそれだけではない」ので、そんなことばかりやっていると「我が身を売る」ことに繋がり、重厚感が失われていく恐れもある。

説明する方も受け取る方も「それだけではないけど、ここに於いてはこの点について触れておいても良いよね」的な大らかさが大事ですな。 理由の説明は「しっかりした線、がっしりした骨格、因果関係の確認」に繋がり、安心と自信をもたらし、その基盤が勇敢さを育むことにも繋がる。

 

解剖学者の三木成夫が「内臓系最強が心臓であり、体壁系最強が脳である」と言っているが、男女差の象徴としては先ず性器が大きかろう。私はそれに加えて「脳梁の太さ」に目を付けている。男女で脳梁の太さに違いがあるか、それが本当に科学的事実かは分からないが、そう仮定することで思い当たる節が多々あるのだ。

脳梁が右脳と左脳を結ぶ橋だとして、女はその橋が広い。イメージや感覚を担当する右脳、論理や言語を担当する左脳(色々と一概に言えないのは分かる)。脳梁が太いと「この橋渡れ」とばかりに、感覚を言語化する割合や勢いが凄いのではないか?日本は女性的であり、漫画がお家芸なのも、それであろう。

橋が狭ければ=脳梁が細ければどうか。「どうせ渋滞になるから止めておこう」と、所与の感覚が右脳に揺蕩うままに置かれる割合が大きくなる。男は女に比べて「あまり言語化しない」のである。感覚のまま放置しておく。

そもそも言葉とは抽出されて存在に至る。花という言葉が現実に存在しているわけではなく、あるのは人間が「花」として認識する物質である。一度言葉が出来ると、五感的に蝕知するだけではなく、その言葉に応じた認識が出来上がる。生の現実と言うより、言語的概念を操作するようになる。この流れで「言語=生の現実(っぽいもの)」だったのが「言語=マンガ絵・記号」的なものに変わっていく。一方でこれを元に戻そうとする動きも生まれる。さらに元に戻そうとするどころか「言葉=非現実、創作」的なものにまで至る。「ペガサス」などの神話もそうして生まれる。

PCでも映像や音楽のファイルは重いが、文字は軽い。女は男より多数の品数を認識する傾向があると言う。品数多く、一つ一つが重いと、やってられなくなる。だからパンパン文字化するために、脳梁が太くなったのではないか?(卵が先か何が先か知らぬけれど)

「生々しく得体の知れない現実的オブジェクト」では重過ぎる。「左脳化され無毒化されたマンガ絵」を好む。品数を増やしても処理速度が落ちない。女の連想能力の広さや素早さ、マルチタスクをこなせる力も、脳梁の太さを元にしているのではないか。

 

現代ホスト界の帝王たるローランドも「言葉の持つ力」を言っている。「女は感覚的、感情的生き物だ」と言うし、それはそれで事実でもあろうが、実は女は言葉に左右される割合が大きい。「行動や態度」とすら言っていないことにご注目いただきたい。「言葉」なのだ。

男は自らの性欲を元に、色気などハニートラップでよく騙されるが、女は言葉で騙される。ホストも言葉を大事にする。態度や行動を見ていれば、ホストのやっていることなど、酒を飲ませて女に大金を払わせるろくでなしである(?)。

感情的生き物と言うと「右脳が活発で、感性豊かで」と思いがちだが、女は左脳の方が活発で、実はガリ勉が陥りがちな錯覚や病に陥りやすい。「生の現実を観察し、フィードバックが強力」なのではなく、「机上の空論、脳内妄想、固定的定義でクルクルしている」傾向が強いはずだ。

卵子はどんな精子も受け入れ得るが、一度受精すると、その精子だけを元にして展開する。一度言語化されると、その定義をなかなか変えないことに似ている。帰納に乗り気で無い。頑固なのである。カオスからコスモスになり、一度花が咲くと、閉じる傾向が強過ぎる。途中でやっぱ他行くと言う卵子は無い。

日本に色々な「文化」が残っているのもその為である。「古典」的に統合される傾向は弱く、それはそれとして、卵子が閉じるように、そのものとして続く。 神仏習合と言っても合体して原型が無くなるのではなく、それぞれ元は元として続きながら、影響を与え合う。

 

「人と話せ人と話せ」言うが、同質的人間が集まれば「自己確認+自己肯定+自己承認」からワイワイ盛り上がる可能性が高かろうけれど(?)、個性的・異質な人間は褒められる可能性も少しあるものの、90%以上疎まれ睨まれ嫌われる(?)ので、出会いがリスキー過ぎるのだ。

そんなリスクを冒すより、自分の時間を大切にし、哲学や芸術やモノに向き合った方が成長できる。変わり者には変わり者の成長の仕方があるので、そしてそれを貫く中で、仲間も見つかるのでは?知らんけどw 世の中変わり者だらけだったりしてな。貫きが足りぬから寂しさに襲われるのでは?

「人と話せ人と出会え」と言っている人間など、所詮「似た奴に囲まれているだけでは?」と疑いの目を持った方が良い。そもそも「人と話せ」と言っている人間に「人と話すな」と持ち掛けて、そこで円滑なコミュニケーションが出来るなら、少しは信頼できるが、怒り出すようなら眉唾物だ。

それに対して「人と話せ=同質的になれ、と言いたいだけだ。本来皆バラバラなのは分かっている。話して会って同質的になれ。その方が何かと生きやすい」と言うかも知れないが、限度ってもんがありますからねw まあ、好きな方に流れてください。

 

伝統伝統って、伝統の何が有難いか。「金持ちになる必要なんてない」って教えてくれることだよ。伝統を振り翳して「うっへっへ。これだから成り上がりはウンタラカンタラ」って、それが成り上がりの乞食根性だってんだ。「幸せな暮らしは、感動はすぐそこにある」ってな。

「あれも経験したこれも経験した、そんな人だからこそ分かる質素な生活」って、それが成り上がり根性だってんだ。大富豪の経験など無くても、日々の生活の中に「これが幸せなんだな」と刷り込んでくれる何かあること、それが伝統の凄みってもんでしょうが。だから安心してください。

「あなたの好物はなんですか?」 「唐揚げです」 「世界中の唐揚げを食べてから言え!」 そんな会話があるだろうか。世界中の唐揚げどころか、うちの不味い唐揚げ以外喰ったことねえと。それでも俺の好物は唐揚げで、それで幸せなんだと。それが生きることであり、幸せを実感するということだ。

伝統伝統と、伝統の中にある者は幸福だが、埒外にある者は哀れむべき不幸者だと。そのような差別に使われるものが伝統だってんなら、伝統などクソ喰らえであります。

 

40になったら分かる。50になったら変わる。60になったら?

41だけど右も左も分からねえ。好きな物は好きと言っているだけ。あれも好きこれも好き。比較する理性がねえわけじゃねえ。手に入らないものだって多い。そんばものばかりだ。いつまでも青臭い、自分の気持ちに嘘をつけねえ。

 

「『ドン・キホーテ』の出版は1605年であり、『ハムレット』の上演は1601年ごろということになっている。かならずしも単なる暗号とはいえまい。はじめに、すべてが語られてしまったのだ。どうも歴史とはそういうものらしい」

「初めに答えは出ている」と俺はよく言うが、その時、常に念頭にあるのが 福田恆存のこの言葉である。

 

俺は福田恆存をよく引用するし、尊敬する数少ない人。ただ晩年になって「私もやっぱり東洋人なのかな」と言ったり、小林秀雄が「清潔な鳥」と称したように、潔癖そうな点はどうしても気になる。

近代を論じ、近代に参与するこそ日本の道と言い、演劇団体を作ったのも「近代化をはかるため」だそうだが、文学青年的近代的モヤモヤに対する共感が少ないように思うのだ。川端康成などを高く評価していないし、感覚派を馬鹿にする傾向がある(俺も好きで無いし分かるけど)。

でもああいうのが近代だからね。「人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」じゃねえけど「少女趣味、何となくキレイ」、それは誰の心にもあるものだが、忘れていけない心です。「近代的モヤモヤ」や「悪を抱えられる贅肉」が少ない。その点近代を批判する保田與重郎はそれらがあるんだよなあ。