「近代とは何か2」 | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

高速、大規模、無尽蔵、文脈無視≒定義の無限化・既定的意味の剥奪、
合理化、機械化、組織化、画一化、制度化、官僚化、
細分化、断片化、多様化、価値観の相対化、自己決断的、

(逆・反動)
狭すぎるコスモス⇔広すぎるカオス
自閉する術⇔開けて繋げる術
合理化⇔押し寄せる非合理の波
画一化⇔無限の多様化
高速⇔スローライフ
グローバル⇔地元
既知化⇔神秘崇拝
全能感⇔無能感
夢を追う・自己実現⇔氏素性に従う・封建的幸福
一期一会でBe Gentleman⇔既定的慣習によるモラル

無常迅速なる現実に対して刻一刻最適化しようとしても無理がある。
宿命・生き方・生甲斐を自分で探さなければならない⇔封建主義的幸せ。(ハムレット)

ツッコミが入りまくる(ドン・キホーテ)。

生まれ育った町で、知り合いと、どう使われるか知っているものの、全体を作る。
知らない町で、知らない人と、どう使われる知らないものの、断片を作る。

何となく想定できる事態が増える一方、現実はカオスであれば、
とにかく収拾が付かなくなるということは予想できても、
具体的にどうなるか正確に予測できない。

画一的な時間が空白の時間を意識させる
⇔そもそも満たされているからこそ時が流れ出ずる

既定的な慣習に従ってモラルを維持し、挨拶をしていれば、
そのうち本当に良い奴になっていく側面もある。
言葉も習慣も分からない奴は仲間外れになりヤサグレて嫌な奴になるかも。

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【近代的インフラ】
科学的合理性に基づき、目的に応じて無駄なく最適化を図った、不特定多数が利用できる、
大幅にオートメーション化された、安定して機能するシステムを
専門的知識・職能を持った人間が役割分担しながらシフトやルールに基づいて働く限り、
同一の効果を発揮するように機能させる。
【逆】
呪いや運に基づき、何が目的かも曖昧なまま無駄に、特定少数の人しか利用できない、
なにもかも人力で動かす、使う方もよく分かっていない不安定なシステムを
専門的知識・職能を持たぬ素人が役割分担もせず好き勝手に、
シフトやルールなどの決まりなく、誰でも出入り自由な形で、気分次第で休んだりしながら、
人によって日によって異なる効果を出すように使う。
【対ウンコ野郎フルメタルジャケット】
剥き出しの水路が非近代的と看做されるのは、ウイルスなどの侵入を容易に許すだけでなく、
ウンコ野郎に備えていないからだ。
水路にウンコすることを至高の善と考える輩もいる。
最低限の共通ルールも守れないようなヤバ過ぎる奴を逮捕・監禁することも大切だが、
ウンコしたくても出来ないような水路を作ることも大切だ。
ウンコ野郎に新たな善を探させることにも繋がるので、共存思想にも繋がる。
田舎的相互監視社会なら「日頃の監視や村八分」などによって対処できるが、
都市レベルになってくると、誰がいつどこで何を仕出かすか分からないため、
ウンコ野郎を念頭に置いたフルメタルジャケットが必要になってくる。
【最大公約数的共通ルール作り】
近代化とは幾多の対立の後、「全体のルール・共通項を定める営み」でもある。
その根底には「何を仕出かすかわからない存在」というのがあり、そのような存在への備えがある。
「お互いの信念や妄想があるのは分かった。大切にしているものもそれぞれ違う。
 それは良い。分かり合えないのかも知れない。だが共存も大切だ。
 好きにすれば良いという意味でお互いを尊重し合いながら、
 共存できるだけのルールを作ろう」と。
【逆に言えば、個人であることが出来る】
逆に言うと、社会全体を違反したくても違反できないようにセッティングしてしまえば、
お互いを監視せずに済むのだ。悪いことが出来ないので監視する必要が無い。
と言うことは、お互いに未知の個人であれるのだ。
「隣は何をする人ぞ」と言うが、そもそも余計な御世話である。
ただ、確かに隣で爆弾でも作られたら堪ったものではない。
そこで爆弾は売らない。「爆弾的なものを作ってはいけません」という教育・大宣伝が行われる。
個人でいるために、お互いに干渉し合わずに済ますために、前提として、全体の取り決めがある。
「十戒以外は御自由に」の十戒をどう定めるか。
もちろん、それでも犯罪は起こる。都市には犯罪が付物だ。
都市とはその意味で「最大公約数作り」と「個人の自由」を
どうバランスするかという問いと常に向き合う場所とも言える。

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「私たちの潔癖は、自己表現や自己主張を、そしてあらゆる「芝居気」といふものを、本能的に嫌つてきた。平穏な仲間うちの社会においては、ほとんどその必要がなかつたからだ。そこでは自己は外部の現実とともに、そのなかに埋没してゐて、最初から、そして最後まで、それと過不足なく一致してゐた。多少の違和感が生じても、同時にそれを解消する形式といふものがあつた」
福田恆存『人間・この劇的なるもの』

同じような人間が同じような生活をし、
同じような言葉遣い、同じような反応で暮らしていれば、
「何の」と言っては言い過ぎなら「殆んど」対立というものと面と向き合う必要が無い。
言葉と反応の成熟とは、例えば「道を塞いでいる人間」がいる時、
「おっとごめんよ」と言えば、「おっとすまねえ」と微笑ましく避け合うような状態。
使用言語が違い、言葉の使い方も違い、反応も違うとなれば、
「何て言って良いか分からない」「相手が不快になる」「自分も不快になる」
従って「表現が大袈裟になる」「反応も過剰になる」「黙るしかなくなる」など。
要は「適応異常を起こす」わけだ。
「仲間内の阿吽の呼吸が気持ち良いのは、幸せな状態だから」だ。
近代になり、私がいつも言っている状態になった。
その状態に於いて、だからと言って諦めるのではなく、
ユーモアセンスを基本にしながら、十戒的な規律と、
それらを前提にした言葉と反応の成熟を狙いたい。
必ずしも不可能ではないはずだ。

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【劇的な存在である人間といふものの幸せ獲得法各種】
現実を慎ましく生き、そこに生甲斐感じる。
現実をド派手に生き、そこに生甲斐を感じる。
現実を変えること自体に、生甲斐を感じる。
現実をありのままに身を委ねることに、生甲斐を感じる。
現実は現実として、スポーツに生甲斐を感じる。
現実は現実として、芸術に生甲斐を感じる。
現実は現実として、ゲームに生甲斐を感じる。
現実は現実として、勉強に生甲斐を感じる。

人間は時と場によって全てを使い分ける。
全てを使いこなせる方が幸せ獲得チャンスも広がる。
スポーツに生甲斐を見出す場合も、スポーツもできない程、
現実が乱れていては話にならない。
大金がなくてもゲームはできるが、少しは必要で、
それさえも無い場合、ゲームもできない。
お茶を飲んで一服する間、慎ましいながらも深々とした劇的必然を感じることも可能であるが、
スポーツ以外悉くつまらないと感じる人には、面白くもないだろう。
実際この世には茶人と老人がいる一方、アメフト選手と若者がいる。

美輪明宏は歌を歌い、演戯もし、舞台で活躍し、カタルシスを提供し続けているが、
現実生活を美しく快くしていく大切さも説き続けている。
社会問題に対する提言も止まない。
幸せに生きるために全てが役に立つ。全てに貪欲であって良い。

もちろん好き嫌いと向き不向きはあるので、それはお気に召すまま。
ただ「栄養摂取の大切さ」と「栄養摂取法」が教えられていなかったり、
そもそも社会的な規模で蔑ろにされている傾向がある。
伝え、説き、育てていきたい。

さらに、ライフスタイルによって「向いている栄養」「その栄養の取り方」が変わるので、
それを多種多様に提供したい。
「無職のひきこもり」に「それ自体が面白く、スキルアップにもなり、教養を与え、
芸術的センスを育み、コミュニケーションスキルをつけさせる」ことは可能かということ。
これを可能にするためには全てを動員する必要があるだろうが、
必ずしも不可能ではないだろう。
貧乏用、金持用、暇人用、忙人用などなど。

「芸術>スポーツ>現実」
「一人>特定少数>不特定多数」
劇的必然性に則って生きられる可能性の順番。
一人で現実を変えていくにあたり、
そこに劇的必然性を感じられる奴は世界的に見ても恐ろしく少ない。
「特定少数で現実を変える」ことに劇的必然性を感じることは、それなりに可能である。
「不特定多数で現実を変える」ことはよくあることで、「変わるには変わる」だろうが、
「侭ならぬ」まま変わっていくことと思う。
ところで「恋愛」と「二人あるいは家族」はどこに位置するだろう。
「現実>恋愛」。恋愛は現実より侭ならぬだろうか。
「二人>一人」。一人より二人の方が侭なるだろうか。

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アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結』
【モダン3つの特徴】
1近代の社会制度と伝統的社会制度を比べると、近代は極端に変化が早い。
2変動の広がりが地球上ほぼすべての全域にすさまじい勢いで及んでいる
3国民国家という政治システムや、無生物エネルギー源への生産の全面的依存(例えば生産物と賃金労働の徹底した商品化)

【モダニティ示すダイナミズムの源泉の3つの識別】
1、《時間と空間の分離》
これは、時空間が無限に拡大化していく条件であり、時間と空間の正確な帯状区分となる。
2、《脱埋め込みメカニズムの発達》
脱埋め込みメカニズムは社会的活動をローカルな脈略から「引き離し」、社会関係を時空間の広大な隔たりを超えて再組織化していく。
3、《知識の再帰的専有》
社会生活に関する体系的知識の生成はシステムの再生産に不可欠な要素となり、社会生活を伝統の不変固定性から徐々に解き放していく。

【時間と空間の分離】近代以前は地球規模で時間の統一性がなく、国家内ですら地域によって異なる「時刻」を用いていた。
1時間と空間が分離し、両者が標準化された「空白な」次元を形づくっていくことで、
社会活動は目の前の特定の脈略への「埋め込み」から解き放たれていく。
2時間と空間の分離は、近代の社会生活の示唆的特性である。
3モダニティと結びついた徹底した歴史性の実現が時空間への「挿入」様式に依拠していること。
今日、世界的に承認されている標準的日付制度は一元化された過去の充当利用を可能にしている。
これは行為と経験の世界史的枠組みを形成していく

【脱埋め込み=社会関係を相互行為のローカルな脈略から「引き離し」、時空間の無限の広がりの中に再構築すること】
社会関係が相互行為のローカルな脈絡から「引き離され」、時空間の無限の拡がりの中で再構築されること。
具体的には所有する個人や集団の特性にかかわりなく流通できる相互交換の媒体、即ち銀行貨幣のような「象徴的通標」の発達が一つ。
そして弁護士や建築家、医師などの職業的専門家が作る知識体系への信頼がもう一つだ。
(ギデンズは伝統的秩序の共同体的特質と、近代的社会生活の非人格性とを対置するのは間違いだとする。
何故なら共同体的生活は近代の時代環境においても何らかのかたちで残存していくか、活発に再生していくかするからだという)

【モダニティの再帰性】
・再帰性とは、行為者やシステムが自らの振る舞いやおかれている状況をモニタリングし、
必要であれば省察・反省し、場合によっては自己の振る舞いやものの見方を変更する、そういう性質や程度。
・再帰性はモダニティに固有のものではない。しかし近代という時代の到来とともに再帰性は異なる特質を呈するようになる。
近代の社会生活の有する再帰性は、社会の実際の営みがまさしくその営みに関して新たに得た情報によって
常に吟味、改善され、その結果、その営み自体の特性を本質的に変えていくという事実に見出すことができる。
【社会的活動に再帰的に適用されていく知識には、次の4つの要素が浸透している】
1、《権力の格差》
一部の人々や集団が、専門的知識を、他の人たちや集団よりもたやすく専有できること。
2、《価値の役割》
価値と経験的知識は、相互影響のネットワークのなかで結びついていること。
3、《意図しなかった帰結の影響》
社会生活に対する認識は、そうした認識を変革目的で用いようとする人びとの意図を超越していくこと。
4、《二重の解釈学における社会的知識の循環作用》
社会システムの再生産の際に再帰的に用いられる知識は、その知識が最初に論及していった状況を内在的に作り変えていくこと。

・近代的な社会制度は、それ以前と比べて人々が安心できる環境を生み出したが、危険な側面ももたらした。
たとえば単調な反復労働や「生産力」の増進から大規模な環境破壊をもたらした点や戦争の工業化。
・①親族、②地域共同体、③宗教、④伝統(時間的な連続性を生活パターンとして定式化→存在論的安心感に寄与)
→これらは脱埋め込み・再帰性により弱体化→モダニティにおいてリスクは査定可能で不可避的運命とは捉えない。
・脱埋め込みと同時に、再埋め込み→近代は非人格的システムが生活世界を覆いつくしていくというイメージは正しくない。
他者との親密性はかつて場所的特性の中にあったが、現在は距離を隔てても可能。
・モダニティにおいては、自己実現がアイデンティティの基盤。
・グローバル化したリスク→専門家知識の限界。
・社会的知識の循環性→社会的環境の機能に対して次々と新たな知識が投入されてくる(現状分析→新しい理論という形)
→安定不変の社会的環境は形成できない。
・ポスト・モダンというレッテルを貼られている現象の多くは、文化の崩壊や自我が中心性を欠いた「記号世界」のなかに
分解していくことの表出ではない。それは重大な帰結をもたらすリスクにみちた、気のもめる舞台背景のもとで展開する、
自我と地球規模の社会組織との同時変容の過程である。(スッチャカメッチャカの中でもがき苦しむ)
・自然がコントロール可能なものへと変化としたこと。・
・「空気を読む」とはまさにモニタリングであるが、「空気読めよ!」といったつっこみが常態化した世界は再帰性が規範化した世界であろう。こうして、以下のような仮説が考えられる。
近代化が進むにつれて、プライバシーを気にする人が増える。
近代化が進むにつれて、「気遣い」や「空気読解」をすべきであると考える人が増える。
このようなモニタリングへの固執は、「より適切にふるまいたい」「もっと周りの人々から承認されたい」、
「もっと~たい」といった欲望にもとづく、「合理化/最適化」への執着ということである。

【リスク】
・選択と自由とリスク。覆い来るような危険から積極的にリスクを取りに行くようになる。
・行為をしないことにもリスクはある。「ひきこもり」が端的な例だろう。何にでもリスクがある。
・リスクの認識が深まるということは将来の不確実性に関する認識の高まりであり、
そのような不確実感は、明日に関してよりも一ヵ月後、一ヵ月後よりも一年後に関して大きいだろう。
遠い将来ほど不確実であると感じるならば、近い将来、そして今現在を重視するようになろう。
こうして将来よりは現在を志向するような態度が形成されていくだろう。
 (想定能力増加、カオス度増加→結果的に予測できない)

【ポスト・モダニズム=文学、絵画、造形芸術、建築における表現様式や表現運動】
ポスト・モダニティ=認識論の既存の「基礎」がすべて信頼できないことが明らかになったため、
何事も確信をもって認識できない点にわれわれが気づいたこと、「歴史記述」は目的論を欠いており、
その結果、いかなるかたちの「進歩」もまことしやかには擁護できないこと、
新たな社会運動が次第に顕著になるにつれて、新たな社会的、政治的協議事項が生じてきたこと。

cf「将来は、人間のもつ現在化の能力の手に余るのである。にもかかわらず、人間は、このような常に複雑な将来を伴った現在において生きていかなければならない。従って人間は、自らの将来を現在の尺度で不断に剪定し、複雑性を縮減していかねばならないのである。」(『信頼』ニクラス・ルーマン)

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【国家は不自然で大規模で激烈で不滅。人間と同じように】
「人類-幻想的なもの≠人類」
 「国家など幻想だ」と言うなら他にも幻想的なものはあり「人類-幻想的なもの=人類」かと言ったらそんなこともないだろう。スポーツのルールも幻想に分類されて然るべきだが、人間はスポーツを楽しんでいる。私など「国家は形而上物だから良い」と端的に言っている。共同体・共同体の枠組・共同体の儀式など、いわゆる宗教と区別が付かない。そもそも宗教的なものだからだ。
「チンドンであることは丸出しで現実的」
 それに対して宗教と国家の違いとして「自覚的な参加」を条件に挙げるかも知れない。先ず国家は自覚的な参加を超えて「チンドンであるからこそ近代的であり、それが良い」と私は言う。さらに「自覚・無自覚」と言うが、ある宗教への「意志的な参加」も「自分の意志と思っていたのだが、実は流されていただけ」かも知れず、人間の思考回路などそんなものかも知れない。その意味でも国家は良い。「近代的国籍主義に基づいて問答無用で参加させてしまう」からだ。哲学的にも政治的条件的にも「始めからとどのつまりを丸出しにした共同体」である。あらゆるコスモスはカオスから立ち上がったわけで、カオスであることを忘れさせない。
「国家は不自然で大規模。まるで原発のようだ。まるで人間のようだ。人間は不滅だ」
 国家を嫌うサヨク達は一体何を信じているのか。「家族・向三軒両隣・近所・村・町・都市・国・地域共同体・地球」。「範囲・統治方法・参加資格」。
 原発を嫌う理由の一つに「不自然だから」と言うのがある。「原発は不自然だ」と言う人達は何を自然だと思っているのだろうか。確かに核物質の何かは自然界そのものには存在しないと聞く。人間が作り出したものらしい。しかし人間も自然物の一部と考えれば、人間が生み出したものも自然物だ。人間の思考回路は動植物に比べればイカれている。だから不自然であり、それを撲滅する必要があると言うだろうか。しかし人間自体がそもそも動植物に比べればイカれた存在であり、地から離れて宇宙に行くほどだ。不自然に無理をしたり、不自然に殺し合ったりしている。人間は動植物的と違って理性的な存在であり、大袈裟な存在であり、激烈突飛な存在である。国家も同じようなものと思う。近代国家は近代に仕上がったわけで、近代国家の業績は善悪ともに程度が甚だしい。原発も人間も国家も不自然で大袈裟な存在なのだ。
「不自然で大規模だから迷惑を掛けやすくても、近代以降の人類を御せる組織は国家以外にない」
 サヨク達はだからこそ国家を嫌うのだと思う。確かに特定の勢力が国家のハンドルを握り、自分達以外に自分達の思想や風習を激烈に大袈裟に強制するのは迷惑だ。(それは歴史的事実でもあろうし、それを牽制する仕組も国家は本来持つべきであるし、持つべきとされている)。ただ人間の数が増え、人間の趣味も複雑化して、思想も多様になってくると、対立も増加激化するわけで、それを取り締まれるのは国家くらいではないだろうか。国家を滅ぼしても、サヨクが嫌う国家的要素機能性質を持った別の組織がサヨクに襲い掛かるだろう。「ヤクザを追い払ったら無法地帯になった」という話と似ている。
 確かに国家以外の組織や個人がモデルケースを作ることによって、その中で快適に暮らしたり、国家に範を垂れることは出来る。絶えず問題点を指摘して改善する必要がある。絶えず国家を牽制牽引する必要がある。その気持ちを失ってはならない。しかし「国家を無くせば嫌なものが無くなる」というわけではないだろう。
「人類やってりゃ、いつか近代は生まれる。どう管理してどう乗りこなすかが問題」
 「鶏が先か卵が先か」。「国家なんてあるからヒューマンサイズを超えた人間が増えるの」と言うだろうか。国家的なものを無くせば一時的には減るかも知れないが、また国家的なものが現れて、それを期に国家的なものも増えて激烈な人間もまた増えていくのではないだろうか。「人間は激烈・大袈裟・不自然な生き物」であり、人間が存在する以上「国家的なるものは不滅 or 滅してもまた出てくる」ものと思われる。私としては「人類やってりゃ、いつか近代は生まれる」と言いたい。人間はいつか大袈裟になり、激烈になり、不自然で大規模で迷惑でもある国家を作ってしまう。人類を全滅させて、また新たな人類が出てきても、また国家を作るだろう。ただ確かに野放しにすれば良いと言うものでもない。どう管理するかが問題だ。

【宮台真司】
アングロサクソンのエリート教育は文武両道といって、必ずスポーツをさせます。なぜならスポーツは敗北と挫折の連続だから。これ以上頑張れないぐらい頑張って練習してきたのに、やすやすと負けてしまうこともある。努力だけではどうしようもない限界にぶちあたる。でも、そこであきらめてはいけない。なぜなら、それが人生であり、生きることだから。

【合理性色々、戦士・魔法戦士、ウィリアム一世、現実度、戦争、ゲーム】
「近代史においてはアングロ・サクソンを敵とした國は必ず敗れる。そのアングロ・サクソンを敗り、イングランドを征服したノルマン人ウィリアム一世から英國史は始る」福田恆存『私の英國史』
・合理性にも色々あるが、アングロサクソンの場合、所謂物理的合理性のみを合理性と判断する本能がある。物理的合理性は複雑系のような不思議さも持っており、それだけでもかなり複雑で多様な論理を生む。アイルランド的妖精物語も一方で持っているが、それは御伽噺の世界であり「大陸的に芸術に現実的痛切さを託す」ようなものは少ない。アリスや夏の夜の夢などになる。
・戦争、伝統、ゲーム、常識、
 物理的高い⇔低い、ガチガチ⇔ダルダルなど
・「物理→複雑」「物理→単純」の両方の流れがあり、「一つ一つの論理は現実的効き目を試される」。
 ウィリアム一世は痛打を与え続ける魔法戦士であったか。ヤン・ウェンリー。
・アメリカは既にゲームを実戦に取り込んで大きくなっている。

現実的な経験によって判断するか。
理性的な可能性によって判断するか。
近代とは「だったらどうする」「可能性がある」「起こり得る」が如実になった時代でもある。
それは現代まで続く。
これからさらに増えてゆく。

【男なら男らしく成長し、近代的男性になりなさい】
女が一番嫌がるのは「男に男らしく成長される」ことである。女の掌の上で転がしておきたいのに女を支配するような男になってしまう。スポーツ選手は体は強いが、メンタルは中学生レベルである場合が多い。女にとって必要な男は「重たいものを運ぶ肉体」と「掌で転がせるアホさ」を兼ね備えた男。まさにスポーツ選手はそういう男であることが多い。
男はハイティーンになると肉体的に女を上回る。そして精神的にも相対性を強く感覚し始める。ユーモアセンスの登場である。「特定の価値基準を受胎し、その真善美に則って現実に於いて猪突猛進を繰り返す」女という存在を往なすことの出来るマタドール精神が顕現し始める。これを女は嫌がる。可愛くないのだ。お笑い芸人が常識を相対化しピエロになってくれる間は良いが、現実を突き放して「官僚的に枠組を制作」したり「戦闘機を開発してそれまでの戦略を無化」したり「ネットでTVを相対化」したり「3Dプリンタで職人芸を時代遅れ」にしたり。そうなると安定した社会の範囲が狭まる。カオス前提の多様で不安で混乱した社会になってしまう。それが「近代」だったりするわけだ。女は近代を嫌う。原始時代を嫌うように。こち亀の両さんが婦警どもに何と罵られているか。「あのゴキブリ野郎」と罵られている。女にとって原始的・近代的不安定はゴキブリのように叩き潰さねばならないものなのだ。
しかしそれでも近代化を推し進めるとどうなるか。安定を前提にした社会にしか生きられない女は「安定した世界に引き籠る」ようになる。例えば「音楽」。音楽は音楽的ルールに則り安定している。音楽の世界にもイノヴェーションは起こるが、安定したルールに則って活動し続けることも出来る。私は10年前「常識が現実レベルで相対化されれば女は引き籠るしかなくなる」と言った。実際にそうなって来た。もちろん逆に元気になった女もいる。しかし特定の常識が絶対だと信じ、極度に安定を好む女はヒステリーを起こし引き籠る傾向が出てきた。
女が一番嫌がる「男に男らしく成長される」とは何か。それは「近代化すること。男が近代的男性になること」なのだ。全てを相対性の海に沈めて、そこから決断的に自分の好きな価値観を浮上させる。それは海に浮かぶ発泡スチロールのようなものでしかない。しかしそれで良いのだ。軽やかだから。現実世界でアメフト的激突を繰り返さずに済む。優しい思い遣りの世界である。気さくなユーモアセンスの世界である。ある価値観を受胎し、鈍重な動きしかできない女は、軽やかに浮遊し続ける男を羨む。さらに発泡スチロールのくせに「水の流れをコントロールする枠組」を作るまでに成長した男を恨む。だが海面に浮上し、発泡スチロールのように浮遊し、水流をコントロールしてこそ男なのであって、男は遠慮なくそのように成長していきなさい。女に恨まれても、男なら気持ち良く生きていけるし、水流をコントロールしているのだから女を自分のところへ流れ込ませることだって出来るはずだ。

「私はローマ人の素朴な正義感を愛す」ってチェスタトンが言っていたけど、現実的な限りに於いて合理的なのかも知れない。「合理性とは何か」と問い、橋を崩すより、明るくスポーティーに前進し続けられれば、それはそれで健全なわけで。
ただ人間は「個人主義的」な生物でもあるので「宗教改革は不可避」でもある。「絶対と完璧を諦めて相対性を受け入れる」ことによって「より自由により高く成長する生物」なので、その辺が英仏独とイタリアスペインとの違いなのよね。いや、どっちが幸せかは分からんけど。
※多様性を受け入れ過ぎてカオス
※ユーモアセンスを禁ずる勢力をユーモラスに受け容れてユーモアがなくなる

国家というものは、ある側面に於いて、ロマンティシズムと表裏一体なのかも知れませんが、
上に立つ者が非理性的であっては多くの人間を不幸にする。

定義は決断によって移り変わる。特定の意味を共有しなければ組織も社会も維持できないが、常にカオスと隣接していることを忘れてはならない。テクノロジーは進歩する。カオスの流入も激しくなる。コスモスを維持したいという欲望も激しくなるだろう。それは近代からずっとそうだった。

左翼に権力を持たせると虐殺を始める。「色々な勢力がワイワイガチャガチャやっているのが楽しい」という本能があってこそ、自由を維持することが出来るのではないか。思えば「楽しい」を高く評価する民族はアングロサクソンくらいなのであった。

【国家の力】
 「現実的に多極化し得る」状態を前にした時、やはり「国家」の力が大きくなるだろうか。通貨を発行し得る、戦争で勝ち得る、自治し得るとなった場合、混沌は直ぐ隣りにある。その混沌状態に対処できるのは一企業では無理だろう。国家は法律を作れる、破れる、条約を結べる、破れる。莫大な借金をし得る。莫大な額を使い得る。カオスでカオスを制しなければならない時、そのレベルのことが出来る勢力でないとカオスに負ける。その意味で国家に頼る国が多くなるだろうか。勢力が不均衡になれば、色々な勢力が出易くもなろうが、国も強くなろう。「国じゃないと対処できない」ってね。
 ところで政治家がしっかりしているかと言うと、あまりそんなこともなく、やはり色々な勢力が強くなれる状態でもある。国に勝ち得る勢力を横にしながら、それでも国は強くあり続けるだろうか。個人は国家に殺され得るが、平然と並立している。逆もまた当然だろうか。
 「21世紀のアジア太平洋は安全保障に左右される」って話もあるぜ。政治経済の絡みが大きいならば、国による他はないだろう。そもそも国レベルの組織を持っている企業など絶対に存在しない。軍隊、省庁、徴税能力。状況に応じて法律条約を守ったり破ったりする政治力。近代国家という組織は近代国家というだけあって、極めて近代的である。近代がカオスなので魔剣カオスをいつでも抜ける組織でないと対処できないのだ。
 世界各国、特に一定の力を持った国は「国家」に縋りつくと思われる。国家以外の全ての単位、個人に至るまで「強くなっている」からだ。「国家が追い詰められている」と言うのは大袈裟だが、明らかに「張って来る勢力がある」という認識を世界各国は持っているだろう。
 国家は全ての勢力を「平定し得なくてはならない」。互いに平定されていない状態だからこそ「国際社会」が存在する。国家は表面的には落ち着いていても実際には暴力装置を持っており、いざとなればそれを使う。いざとならないようにどのように社会を治めるかは色々な手段があろう。
 近代国家は近代のあらゆる勢力を敵に回しても最終的に引き分けに持ち込めるだけの能力、例えば核兵器を持つに至った。それは外国だけに向けられるものではなく、究極的には国内に向けても使用され得るものだ。現実的に使われなかったのはそこまでの状況が極めて生まれにくいから。国家を存続させる側も、滅ぼしたいと思う側も核兵器の使用を当然にしてしまえば、地球は無くなってしまう。しかし何らかの触発があれば、国家は日頃は秘めている力を表沙汰にする。
 現代社会はあらゆる勢力が強くなり得る状態になっている。即ち「近代≒カオス」の水位が上がっているのだ。「水の上に浮かぶ国家、その下のそれ以外の勢力」という状態から「全ての勢力が浮き身になっている」状態とも言える。無論、それでも国家は依然として強い。「依然として強い」と言うより、私が思うに「国家が本来持っている強さに無自覚的に吸い寄せられている」といった塩梅だろうか。水平に並列する全ての勢力が互いの上に攀じ登ろうとした場合、国家が勝つだろうか。いや、そうとは言えない。全く言えない。そうでない場合も多いだろう。しかし「国家を犠牲にして上に立つ勢力」があるならば、国家も負けじと何かを踏み台にして可能な限り上に行こうとする。その時、国家の踏み台になる者のうち自らの意志でそうなる者も多いだろう。あるいは「どこに帰属するか」という日常レベルの感覚の末に、今まで通り国家に寄る場合が多くなろう。
 「国家に勝てない」ではなく、「国家に勝てる」からこそ近代的状況になる。その場合、特に日本のような島国では「企業」や「仲間」が幅を利かせ、私の件のような状態になろう。これを防ぐためには特に日本のような国に於いては「国家を正当に管理する」必要があると思われる。「私企業を国民の道理に基づかせて動かす」ことは、そもそもメリットが少ない。「で、何ができんの?」って話になるから。国民全体の面倒を見るにあたって、一企業のやれることなど国家に比べたら微々たるものである。そのような小規模な団体に力を注ぐより、国家の管理を徹底させた方が良い。
 「国家の正当な管理」とは「十戒に基づく治安維持・法のもとの平等・社会インフラの整備維持」などを念頭に置いて言っている。警察権力さえ機能しない場合、助けを求める場所が消えるからね。病院や教育機関も同じく大切。電気ガス水道も。日本のような島国は三権分立が徹底され得ない。国家も正当に管理されにくい。そこで強くなったあらゆる勢力が「国家を正当に管理」しなくてはならない。
 国家より強い勢力があろうと、国家の影響力は依然として、あるいは以前より甚大になるだろう(人によってはそうでない場合もあろう)。その時に国家の正当な管理が出来ないと、不当な運営によって損をしたり右往左往する人達が出てきてしまう。それを皆で抑えよう。皆でクリアに管理することによって。
 「頼る」と言うより、「これからも強くあり続ける国家」を「きちんと管理しよう」という姿勢を今こそ問いたい。また何としても実現すべきである。国家は弱くならない。国家を相対化できる勢力が現われて尚、それ以前にも増して力を強めるだろう。サイバー空間の管理ひとつ取っても、その逮捕劇を見ていても、国家の影響は強くなっている。仮に捕まらず逃げ遂せたなら「その件に関してはそいつが国家の能力を上回っていた」と認識すべきだ。国家の力が弱まったと見るべきでない。影響力は強くなろう。
 「国家を上回れる勢力・場合が増えた」ということを、「国家の力が弱まった」と単純に解釈すべきでない。

【国際都市、十戒、俺はウンコではない】
ABC・BAC・CBA。自分にとって大切なものが他の人にとってはそれほどでもない。その逆もある。何をセットにするかも千差万別。価値観なんて人によって違うから「クソミソ一緒」と文句を言っているようなら国際都市に行ったら速攻で発狂だと思うよ。人数も多いので一々気を遣っていられない。守るべき十戒を定めて後はフラットでフランク。ウンコを撒き散らす奴は御免蒙りたいね。「君がウンコみたいだ」?俺は人でありウンコではない。「守るべき十戒を守れない」ってそういうことなんだ。十戒に対する客観的認識力は熾烈に求めるよ。

近代以降、世界には近代的要素が広く強く作用しており、それを無視しても近代に冒されるばかりだ。「近代は終わった」などと近代的要素がなくなったかのように言っても現実が変わることはない。

「近代的要素・性質・属性」は人類発生以来存在するが、その名の通り近代に於いて顕著になり、「近代以後」も広く強く作用し続ける。御覧の通りだ。

芥川龍之介のセンチメンタリズムと黒澤明の光と影は、
日本及び「近代日本」の原風景であり、「世界的」なことも「象徴的」だ。


ピカソの何が良いって、作品としては彫刻が圧倒的に好きだ。原始人に比べると、油断も隙もあるが、それがチャーミングさでもある。魯山人もみみずくの彫刻は良いと思ったらしい。「ピカソは何回も同じことを繰り返すうちに頭が狂ってあのような異常な作品が生まれるのであろう」と論じたのも興味深い。こちらのブログに書いてある側面もそうだが、俺としては近代的神経症からの原始的感覚への接近としても興味深い。※
ちなみに保田與重郎はダヴィンチやピカソには否定的で「あれでは人類を否定し、文明文化を壊す」のだそうだ。「ダヴィンチは神と自分の一対一で自閉的であり(福田恆存も言っていた)、ピカソは原始人なので文明文化歴史伝統と言うことではない」と言うことだろう。俺はどちらも好きだ。
ちなみに近代の重要人物と言えば、これも福田恆存が言っているが「ドン・キホーテ、ハムレット」である。どちらも架空の人物であるが象徴的である。どちらも神経症的であり、妄想的であり、八面六臂の活躍であり、即ち近代人である。
ナポレオンは実在の人物であり、これは天然度が高いからか保田與重郎もお気に入りのようで、私も好きである。独逸浪漫派も「お空に綺麗なお星様」であり、これは舐めているのではない。ニーチェも抒情詩人こそ「生のありよう」と言っている。原始人が泥を捏ねて試行錯誤したように、文学青年もモヤを捏ねて試行錯誤したのである。文学青年とは近代の原始人である。原始的試行錯誤が文明の礎になったように、近代的妄想も近代文明を生み出したのである。妄想的、ポエムと馬鹿にしたところで、漫画アニメ大衆文化の隆盛は止まるところを知らない。原爆もよく落ちました。
近代に於ける「アウグスティヌスがアルチュール・ランボー」「トマス・アクィナスがジャン・コクトー」と言うのが私の見立て。ランボーの地獄の季節は「ゲーテのファウスト」のようでもあり「チェスタトンの正統とは何か」のようでもある。そしてイリュミナシオン、幻想幻視、故に原想原始?ランボーの言葉は子供の俳句のようでもあり、それを走らせてもいる。「太陽と手を取り合っていった海」。
ところでグールドは漱石の草枕が好き。※
バーバパパもモダンバーバリアンで素晴らしい。
ちなみに日本を代表する近代的人物とは誰か?こち亀の両津勘吉である。天下無双の日本晴れである。

※ http://blog.livedoor.jp/zepclone/archives/10537878.html
(多分これは世界中にも類を見ないピカソ芸術論やと思う。 実際、この洞察は創作活動の本質、繰り返し行為がもたらす集中力による精神の覚醒、創作の高次元への昇華現象を的確に言い表しとる)
※【答えは最初に出ている】
グールドがアラン・ターニー訳の『草枕』に出会ったのは1967年。『ブラームス間奏曲集』の録音が1960年。グールドのブラームス間奏曲は草枕の即身成仏。最初に答えを出していたのだ。さすが。
http://1000ya.isis.ne.jp/0583.html
http://1000ya.isis.ne.jp/0980.html

僕はいかにして宮台真司に感染したか
https://togetter.com/li/584439

そもそも現実とは何か?「森羅万象はXである」「君の可能性は無限だ」と言うことに気付かせてくれるものだろうか。

入れ替え可能な個人と言うが、兵士一人一人には個性がある。
あるいは入れ替え可能な個人だからこそ共通の思い出が出来る。

「近代に於ける適応異常(過剰摂取なども含む)」
何故、何を、どのくらい取り込んだか。
いつ、どこでどの範囲で、どのように、誰が。
日本は陰影も膨大だが、電気が来ると、元よりオドロオドロを感じる力が強過ぎて、それを一刻も早く消したがり、ここぞとばかりに膨大なるオドロオドロを殺し切ってしまう。
摂取前と摂取後では真逆になる例も多い。1位がビリになるようなケースも?
ぽっちゃりに「それが君の魅力なんだよ」「いやだ!」と脂肪吸引しまくり、脂肪も全く取らなくなり、ガリガリになったは良いが、栄養失調で死んでしまうとか。

「元よりの民族性×近代」で順位がガラッと変わる。近代以前はトップで、近代以後はビリ。だがそれも民族性の表れの一つと(それは個人でも言える)。
その観点から近代を眺め渡すのも面白いな。
cf、抑圧された時、どこにその抑圧を強く感じるかが個性。これが俺だと踏ん張る土台がそいつのホームグラウンド。「暗黒の中世の抑圧」が近世に於ける各国の個性を顕わにした、と言う話もある(福田恆存)。

現実はスクランブル交差点で、特定のルールに基づこうにも価値観は交錯する。スカッとしない。そこで生まれたのがスポーツで、選手宣誓で「この場所この時間に於いてこのルールに従い動くことを誓います」となる。スクランブル交差点でサッカーをやるわけにはいかないからね。近代は「男性的な時代」だが、一方で「カタルシスを迎えにくい時代」でもある。スクランブル交差点だから「途中で邪魔が入る」わけだ。いざS〇〇し始めたら「すみません、そこ退いてくれますか?」とベッドルームにまで通行人が入って来る。
そこで考え出されたのが「スポーツ」である(大昔からあるけど)。「スタジアム」を建設し、「選手宣誓」で、時空が区切られ、そこは「S〇〇ゾーン」となる。〇起から射〇までを遂行できスカッとできるわけだ。現実がスクランブル交差点になり、カタルシスから遠ざかると、男は発育不全になる。「こりゃどうしたことか」と考えたのが、スポーツなのである。即ちスポーツとは「このままではインポばかりで男が死ぬ」と心配した近代の先輩達からの贈り物である。男を男らしく育てるために策を練ってくれたのである。そこでは筋肉も鍛えられ、全体を俯瞰する力、一対一で戦う勇敢さ、敵を知り己を知れば的な分析能力など「男性的能力」が磨かれる。
私はこれによって「だから絶対にスポーツをやれ」と言っているわけでは、実は無い。スポーツとは「常識」のようなもので、「下手な考え休むに似たり」で、アホは自分で考えることなどせず常識を身に付け、その通りに動いていれば大過ないのだ。それと同じように「ほとんどの人間には近代など乗りこなせないのだからスポーツをやっていれば男らしく育ち、女にもモテる」。その方が良いだろうと言うことだ。
だが知的な人間は常識を分解し、自分なりの論理で動いた方が融通が利くし、細かいコントロールが出来て良い。サラリーマンより起業家の方が成功すれば儲かるようなものだ。スポーツ精神はまことに賛美すべきものだが、「スクランブル交差点をしなやかに移動し、自分なりのカタルシス経路を発育させる」ことが出来るなら、それに越したことはない。
「近代嫌い、スクランブル交差点嫌い、勢いだけの、実は都会嫌いのスポーツマン」の弱点は、まさにそれらである。「近代と言うカオスが怖いのでスタジアムに籠り切り」で、「カオスの中での試行錯誤が出来ない」のである。男のくせに、それは致命的である。オフロードが怖いなんて!「スポーツばかりやって爽やかに育って欲しいの。スタジアムから出たらキモオタになっちゃう。うちの子があんなになったらイヤ!」と心配する健気な母親や女性ファンの声援に守られた、それは哀れな御坊っちゃんである。
女のその声援は、実は「オフロードで男に育たれると、強い男になり、女の掌の上で転がせなくなっちゃう」と言う本能的不安から来ている。イケメンも40過ぎればタダの人で、スポーツマンも現役を引退する。若い時は爽やかで女をスカッとさせてくれ、中年以降はダサくても可愛げがあり、女の掌で踊る。これが女の望む平和であり、その意味でも大多数の男が「常識的スポーツマン」であってくれる方が都合が良いのである。
真の近代的男性なら、常識とスポーツも身に付けるべきだが、自分の頭で考えて、スクランブル交差点を楽しみしつつ、「お前と言う野生動物」になるべきだ。スポーツも存分に楽しむが、カオスとオフロードを基本にしろ。近代を乗りこなせ。スクランブル交差点は最高だ。都会には色々な人がいるから面白い。自分の世界観、価値基準が打ち崩されるのが堪らない。他者がいるのだ。そこから逃げている奴等の、どこが爽やかなのだ。どこが格好いいのだ。スポーツマンでカオスが嫌いのナルシストは、「先輩達が作ってくれたスタジアムの中から出ちゃ駄目よ」とママに言われ、「うん!」と健気に応える子供のようで、しかもカオスの中で葛藤している人々を「キモい」などと言っている女性ファンと同レベルのクズに過ぎない。

男でないから記録の更新のためにあらゆるものを利用しようと言う根性が低い。
男でないから生活全体を意識して、一点集中でない。
男でないからクラウドを念頭に置かない。数や技術でどうにかなると言う意識が低い。
男でないから現状を受け入れる傾向が強い。理想=遠いもの=冒険好きでない。
男でないから人目を気にして周りに合わせてしまう。
男でないから自分で定義しない。やってくる。自然現象なら許せる。
「相対性、ユーモアセンス、なりふり構わず、数・技術・可能性感覚」が無い。
「現状肯定主義、向こう三軒両隣、仲間以外は皆風景、責任を取りたくない」的感覚。
即ち両津勘吉的でないから、付き合いにくい。

女が「危機」を嫌うのは、
「異物が体内に入ることに対する嫌悪感」と
「嫌なものをイメージする時の生々しさ(脳梁を渡らない時)」が原因だろうと思う。
しかし近代に入ると「多様性が如実になる」ため、ワタシキレイを相対化する情報に触れ過ぎる。結果的に引き籠るしかないのである。女は引き籠りである。

女も大人っぽいが、男の大人っぽさとは
善悪の相対性
空間的には「今この瞬間に色々な価値観を持った人がいる」です。
時間的には「善と思ったことが悪に転換していく(または逆)」です。
即ち「情報と交通が圧倒的になった」ため、「多様性が突き付けられてしまう」。
それは「数」です。

近代化しないので、既定の方法・既得権に拘り、近代化した奴等に押されまくる。
近代化前提なら例えば「MMAは強いが昔のヘンテコ拳法も面白いから残そう」となったり、割り切った取り扱いができる。
反近代だと「MMAやるな」となり、ガチるとボロ負けするし、ボロ負けしたのに言い訳し、若い奴等にシラケられ、そのくせ若い奴等を「ヘンテコ拳法こそ最強の拳法なり」などと抑圧し、恨まれてヘンテコ拳法など潰そうと言う流れになる。
数を前提に誰でも参加可能にすれば、才能ある人材を有効活用できる。反近代的にWhoとHowに拘れば、人材は腐っていく。誰でも参加OKなら「まあ天皇制もあっても良いか」くらいに思われて保存できる。
近代的に物質をバラまけば色々な興味を持つ人間が多数出てくる。伝統工芸も取ろうと思えば人材を取れる。貴族だけが商売相手だと貴族に売れないと終わる。スーパーと高級レストランの売上の差を見よ。
そもそも人間の数が増えるので、大人数を「興味も物質も持たぬ状態にしておく」のは不可能であり、その不可能が近代を生んだと言っても良い。