神学 「存在の縁起、経験、客観、普遍、記憶」 | まあのブログ

まあのブログ

夢日記や神学などを書いております。

絵画がある。

AさんとBさんに、「完全に同じ青」を与えるとする。

そうならばその意味で、その絵画は「普遍的な意味を見る者に与える」と言って良い。

AさんとBさんのそれまでの文脈は関係ない。


ところで、「見る」ことができるのは、それまでの文脈に依拠しているか。

「見る」ことが出来ない者は、「見る」ことが出来ないか。

確かに、「出来ない」と言って良かろう。


ところで、見ることが出来る理由は、「それまでの文脈に依拠している」だけだろうか。

それもあるが、それ以外に理由は無いか。


存在Aが、そこに存在しているのは、神が刻一刻生成しているのかもしれない。

1年目、2年目、3年目と「積み重なる」のではなく、

単位が年ではなく、刻でも良い。

1刻目の存在、1刻目の記憶を持った2刻目、2刻目までを持った3刻目。

そのように神が存在を生成しているのかもしれぬ。


経験的記憶と思っているものは、その時に生成されているのかもしれぬ。

神によって。

あるいは、目の前の絵画によって。

目の前の絵画によって存在を得た私は、絵画を描く。


絵画だけではなく、存在は存在によって現実に存在を得ている。

存在を一つ一つ消していき、時間も空間も消せば、自らも消え失せる。


一つの存在は全ての在り方を変え得る。

記憶も変え得る。

たった一つの存在が全ての意味を変え得る。


全ては刻一刻消え失せる。

あるいは残るのは、「存在」だけかも知れぬ。

無属性の存在。

決断することが出来る。

他者からの呼び掛けに応じることも出来る。

そして、存在Aになる。

その存在は属性を持ち、記憶を持っている。


決断して、出現する。

その絵画を選ぶことによって、存在は、始めて出現する。

その絵画によって、存在の属性が決められる。

絵画だけではなく、それは万物に言える。


ただ、「芸術」というものがあるとすれば、

その存在の基調になってしまうものかもしれない。

それは1つでなくとも良い。

移り変わっても良い。


出現する前の無属性の存在は、「『経験』を踏まえた印象」を、「私に与えよ」と、

その絵画に対して要求することも出来る。

その絵画は「言われなくても」、『経験』を踏まえた印象を与えることが出来る。